うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

シヴェータシヴァタラ・ウパニシャッド(紹介8:佐保田鶴治 訳「ウパニシャッド」から)

前回の「カータカ(カタ)・ウパニシャッド」から2ヶ月も間があいてしまいましたが、ゆるゆると続けます。
数論・瑜伽(Samkhya-yoga)という語が初めて現われるウパニシャッドがこれ。前回「ウパニシャッドは中期から一気にヨーガ味が増してくる」と書きましたが、中村元先生の分類では(参考)中期ウパニシャッドとする境界線は「ゴータマ・ブッダ以後」のようです。なるほどね。



中期ウパニシャッドは、項目に対してストーリーがメソッドに進化した文体になっています。そのぶん、「むちゃくちゃなストーリーなんだけど、なんかわかるわ」的なコンテンツとしての面白みは減っていきます。とはいえ、ヨーガ・スートラなどに比べるとまだまだ古い。あそこまでメソッド化されていない、文章やまとめの過渡期として、なんともいえないアンニュイな魅力があります。


わたしはヨーガやインド哲学を学ぶとき、こういう微妙な前後を踏まえた機微を読むのが好きです。ああでもないこうでもないと議論されたり構文が練られた時期というのは、薄っぺらく感じる。でもその「ああでもないこうでもない」の光の当てかたのそれぞれのエネルギーにフォーカスしていくととても面白かったりする。
議論の時期を超えると、今度は「リスクヘッジ」「応戦」「区別表明」のような、他者を意識したニュアンスが出てきたりする。ウパニシャッドの場合は学派や各宗教への認識、区別意識が潜んでいたりするので、具体的にこれは何派を意識しているな、とか、どっかの僧批判? などまでは読み取れないのだけれども、なんとなく「あ、ここ、ワケありかな?」なんて思ったりするところがある。


ぜんぜんかしこまった「勉強」ではなくて、「変態的に楽しむ」感じ。最近の本を読むと「ああ、これはあれを意識しているな」というのがわかってしまうのが逆につまらなかったりします。最近は内田樹さんみたいに丁寧に「(こういうことを言い出す人を面倒くさいと思ってますよ)」って書いてくださる人までいる(笑)。それはそれで「言い切りエンターテインメント」になっているのだけど、古い文献のわかりにくいものは、妄想癖のあるうちこにとっては、脳の酒の肴。


前置きが長くなりました。今回は、引用は2箇所だけです。(もともとこの本の中でも扱いが小さいです)改行がヘンに感じるかもしれませんが、スートラ形式なので、それを再現した改行のままにしておきます。

最高神の創造と自己回帰
一派の学者は天地の原理として本性(内在因)を教え、他の一派は時間を説く。これらはともに誤れり。この世界の梵輪が転ずるは一向(ひとえ)にかの神の偉能によるなり。


彼によりてつねにこの万有は覆わる。彼は智者なり、時の時なり。彼は全能にして、全智なり。彼の司令によりて天地展開の事業(カルマ)は進転す。これ即ち地・水・火・風・空として考えらるるものなり。


かかる事業を成したる後、一たびは退き、再び真性の真性への結合(ヨーガ)を達成し、一物と、二物と、三物と、八物と、あるいは時と、もしくは自我の微妙なる諸性徳と結合し、


そして性徳を具したる種々の作業を開始し、以て一切の存在を布置す。これらの性徳なき時は為せる業の力も消ゆるを以て、彼(神)は本質上全く別異の存在として残る。

ここではまず、カルマを「天地展開の事業」と表現されているところがまず印象的。そうだよなぁ、事業も輪廻するカルマだよなまさに、と。その視野や俯瞰のスケールに刺激を受けました。

そして後半はヨーガの教えが具体的になってくる。註釈に「「一物」「二物」等の内容については註釈家の見解が一致しない。試みに一例を挙げれば、シャンカラ師は、一とは地、二とは地と水、三とは地、水、火、八とは地、水、火、風、空、意、覚、我慢であるとする。」とあります。
これらが「なき時は為せる業の力も消ゆる」となったあとに神登場です。「それ夢オチみたいな!」とツッコみたくなりましたが、「為せる業の力」に対する立ち位置として「ブッダ」の存在をやんわり感じます。それを己の中にとことん求めるか、否か。ブッダという実在する人物の存在を感じる。

最高神の礼讃 より、一部抜粋

彼は常住なるものの中の常住なるもの、意識あるものの中の意識あるもの、多数の中の独尊者にして、人に種々の所願を授く。僧法(サーンキア)(究理)と瑜伽(内観)とによって把握し得べきこの宇宙の原因たる神を知る時、人は一切の覊絆より解放さる。

でも、神は己の中に知る、それは宇宙と一体化する己。
こういう帰結が、「俺はこういう立ち位置だからさ」と決め付けない、インド哲学のスケールの面白さ。
これを「面白さ」ととらえずに、「あそこではああ言ってるよね」という見方をしたとたんに、哲学は所有するものになる。執着するものになる。


インド哲学を学ぶときにいつも思うのは、「議論」が「ああでもない、こうでもない」と言いつつも鎖国的ではない、ミクロフォーカスとマクロフォーカスを自由に行ったり来たりする感じが現代の「議論」とは違っていて、面白い。

ウパニシャッド
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4 主要13ウパニシャッドの虫食い的抄訳
5 ヨガを日本に広めた先生が書いた本。