うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

マーイトラーヤナ・ウパニシャッド(紹介11:佐保田鶴治 訳「ウパニシャッド」から)

マーイトリ・ウパニシャッドといわれているものと同じです。瑜伽行法についての記述が登場します。(六支瑜伽)
解説には「仏教、数論等の厭世思想の雰囲気内に生じ、またその社会がもはやインドの中世期に入ったことを想わせる点がある」とあり、序章は「昔こういう人がいて、その人はこのように説かれていた」といった昔話から始まり、「はい、2周目〜」な感じがあります。「他書に説いていう」なんてくだりも出てきます。
問答もベースが成熟した後でバリエーションが増えたたような感じで、なんだかガンダムのセリフみたいになってきています。


ではではいつものように、いくつか紹介します。

■マーイトリ聖者の梵学道詳説 第二問 ── 有情我
聖者達はさらに問うていった。

「尊者よ、貴師はかくのごとくこの自我の偉大さを御説明下さいましたが、この他にも自我がございましょう? 黒白の果報によって克服され、善悪の胎に入り、従ってその道に上下ありて、苦楽等の相対によって克服せられて輪廻する者にして自我の名を冠せらる者は何者でありますか?」

「いかにも、別に劣った自我があって、元素我(アートマン)とよばれている。……今これを細説するに、五唯(マートラー)は元素(プータ)なる名によってよばれる。五大もまた元素なる名によってよばれている。そして、これらの元素の集合が肉体とよばれ、この肉体の中にありとされる者が元素とよばれるものである。彼の本体(アートマン)は不死にして、蓮華の上の水滴の如く不染であるが、かれ元素我は自性の三徳(グナ)によって克服せられるのである。三徳に克服せられるが為に混乱に陥る。迷乱するが為に、己身に存する主にして、聖なる使役者たる自我を見ない。三徳の激浪にゆられ、汚され、安定せず、動揺し、貪欲あり、狐疑し、遂に我慢に陥って『ここに我あり。これは我に属す』(金七十論二四偈)などと臆計し、それによって自己を以て自己を縛するに至るのは、あたかも鳥が綱を以て自己を縛するが如くである」

ガンダムのセリフっぽい語調になってきたのでついでにガンダム肉体論ベースで行くと、「元素我(アートマン)=アムロ」で読んでいただけるとわかりやすいかと(笑)。ガンダム肉体論というのは、うちこが勝手に唱えているものです。(ヨギがガンダム見ると、そう見えちゃうのという話は過去の日記をご覧ください)
これを、「劣った自我」って言ってるのがツボにハマってしまった。
ちなみにアムロのセリフで「エゴだよ、それは」というのがあるようなのですが(逆襲のシャア)、ものすごいツッコミどころです。(だめ。この話、長くなる)
大喜利を楽しむノリでウパニシャッドを読むのはどうかと思うのですが、「鳥が綱を以て自己を縛するが如く」っていうのはイマイチだなぁ。きのう紹介した空海さんの「絵師が化け物描いて自分で怖がってる」のほうに座布団をあげたい。

■マーイトリ聖者の梵学道詳説 第三問 ── 解脱道
ここにおいて、彼等操持清浄なる人たちは驚きのあまり、師を礼拝して問うた。

「尊者よ、貴師に帰命します。願わくばわれらにさらに教えを垂れたまえ。貴死以外にわれらが身を寄せる所とてはありませぬ。この元素の自我に対しては如何なる方法を以てしたならば、これを捨てて真の自我(神我)との合一に達することができましょうか?」

「他書に説いていう。既遂の行為の取り返し難いのはあたかも大河の波のごとく、死の迫り近づくのを防ぎ難いのはあたかも大海の浪の如くである。善悪両果報で成れる索(なわ)で縛られたる状態はあかも跛人の如く、自由なきことは囚人の如く、多くの畏怖の内にあることは閻魔(ヤーマ)の領地に住むが如くである。愚迷の酒に酔い痴れたるはあたかも強酒に酔った如く、狂躁なることは邪鬼に憑かれたが如く、体境に蛟まれたることは大蛇に蛟まれたが如くである。貪愛の盲闇は黒闇の如く、幻惑に満ちたることは因陀羅網(幻術)の如く、錯覚に陥っていることは夢中の如くである。堅固でないのはカダリー果(バナナ)の如く、刻々に衣装をかえるのは俳優の如く、歓楽の偽妄なことは壁に描いた画の如し。

14連発返し! 俳優が出てくるあたりに時代を感じます。あたらしい。


さて。ヨーガ・スートラ以降、「タコの足って八本だよね」というくらい「ヨーガといえば、八支(八肢)だよね」ということになっていますが、このウパニシャッドの中では六支のヨガが説かれています。まずその解説から紹介します。

ここには六支瑜伽つまり六つの部門から成るヨーガ行法体系が出ている。『ヨーガ・スートラ』には八支瑜伽が説かれている。両方の間には出入りがある。ここの六支の中には禁戒(yama)、勧戒(niyama)、坐法(asana)の三つが省いてあるから、これを入れると九支になる。思択の支が一つ多いのである。
 註釈によって説明すると、調気(prana-ayama)には満・持・虚(puraka-kumbhaka-recaka)の三種がある。制感(pratyaha)とは諸感官をその対象から絶縁すること、静慮(dhyana)とは思考の対象に対し内官が努力してそれに相応(一致)することによって、その対象の内へ没入すること(meditation)、執持(あるいは凝念、dharana)とは静慮において、あたかも油の流れる如く不断に心を固める(concentration)である。思択(tarka)とは静慮と執持において、意(思考作用)がその対象に正しく如実に達しているや否やを検査することであると註されている。しかし、次下の第二十節を見ると、思択とは梵を見ることとなっているから contemplation に相当するとも考えられる。また一説では、ヨーガの結果小さな神異力(siddhi)を得たことが修行の邪魔になるのを検査することとされている。等持(samadhi 三昧、定)はヨーガの究極境地であって、心(citta)ガ対象とよく合致して、風のない所にある灯火の如く不動の状態にあることをいう(absorption)。

引き算の方法で整理します。
青い文字が、六支とかぶっています。


 ■八支=ヤマ(禁戒)/ニヤマ(勧戒)/アーサナ(座法)/プラナヤマ(調息・調気)/プラティヤハーラ(制感)/ダーラナ(凝念・執持)/ディヤーナ(観想・静慮)/サマディ(三昧・等持)


そうすると、ひとつ足りない。ここで特有のものが「思択」です。(参考:「ウパニシャッドからヨーガへ」でも少し触れています)
この解説は上記によると「静慮と執持において、意(思考作用)がその対象に正しく如実に達しているや否やを検査することであると註されている」とのこと。「contemplation」の単語訳の中では「企図」がいちばんしっかりくるかな。意図して静かに見る。六支よいではないかっ!



現代人が陥りがちな「自分縛りと心の中での言い訳とアーサナしまくり忘我でスパイラルするヨーガ」なんかよりもこっちのほうがいいかもしれない「六支ヨーガ」の紹介、いきますよ。

■瑜伽行法
その実修の方法は次の如くである。

調気、制感、静慮、執持、思択、等持 ── 以上を具備したものを六支よりなる瑜伽というのである。


他書に説いていう、「もし賢者あって、意を制し、調気して、感官の諸対象を遠ざけ、かくして、無思慮の状態に立ち得るならば、元来生気(プラーナ)とよばれる生命(ジーヴァ・個人我)は非生気から生じたものであるから、彼はこの生気を調気によって第四位と名づけられたところに執持することができるのであろう」


一書に説いていう、「それよりもさらに高い執持がある。舌端を上顎に圧しつけ、語・意・息を抑制し、梵を思索によって直観するのである。もし、意の作らぎが消滅し終わって、自我を介してかの微なるよりも微にして、光明�幣々たる自我を直観する時には、自我によって自我を見る結果として無我になる。無我なるよりして彼は不可量、無所依といわれる。これ即ち解脱の微相であり、至上の玄秘である」


一書に説いていう、「上方に向かう脈管があってスシュムナーとよばれている。生気の通い路であって、上顎の中間において分かたれている。この脈管に気息と意とを加え、これによって上方に登りゆくべきである。舌端を反転して上顎につけ、諸感官を統制して、自ら偉大性として自らの偉大性を観ずるべきである。さすれば、無我の境に達する。無我境に達すればもはや苦楽の享受者ではなくなり、必ずや独存の境を得るであろう」


一書に説いていう、「静慮の対象として二つの梵がある。声としての梵と無声としての梵とである。声によって無声の梵は顕わにされるのである。さて、『�却』はその中の声としての梵である。これ(�却)によって上方に登れば、終に無声梵の中に消融する。あたかも蜘蛛がその糸によって上方に昇り、遂に自由の身となるように、かの瑜伽行者も�却音を静慮することによって上方に登り、遂に自主の境地を得る」


 他の声論師の為す所はこれとは異なっている。彼等は拇指を以て両耳を掩い、心臓内の虚空の音を聴く。その音には七つの類似音がある。河川、鈴、盥漱(かんそう)、車、蛙、雨、屏処の囁き等の七音である。
この特殊性を越えて、至高、無声、未顕現の梵の中に沈没し去る時は、個性体なく、別異性なきことあたかも種々の精味が一味の蜜に成り切った如くである。


一書に説いていう、「声とは�却という音である。その頂点は寂静、無声、無畏、無憂、歓喜、満足、堅立、不動、不死、不滅なもので、毘紐�劑(ヴィシヌ)と名づけられている。万有に勝れた状態に達するためにはこの両梵を観想すべきである」
 「かくのごとく気息と�却と雑多の万有とを結合するが故に、あるいは自らに検束を加えるが故に瑜伽(結合)という」
 「気息と意と、さらに諸感官の合一、一切存在の捨離、これを瑜伽という」


一書に説いていう、「喩えば漁人が網を以て魚介を引き上げ、これを腹中の火に献げるように、これらの諸生気を�却音を以て引き上げ、これを無病なる火に献げる。この火は熱したる土器に譬えらるべきものである。あたかも熱した土器に入れた酪は草木に触れて燃え上がるように、かの生気ならぬもの(自我)と呼ばれるものも、生気に触れて燃え上がる。その燃え上がったものは梵の形相であり、毘紐�劑の最高境地であり、楼陀羅神(ルドラ)の本質である」

すんごい具体的な瞑想指南。脊柱周辺の説明もある。
それよりなにより、イイのはここ。


「かくのごとく気息と�却と雑多の万有とを結合するが故に、あるいは自らに検束を加えるが故に瑜伽(結合)という」
「気息と意と、さらに諸感官の合一、一切存在の捨離、これを瑜伽という」


いきなり「断捨離」とかいう前に、「雑多の万有とを結合するが故に」というところを見落としてはこれ、もったいないですね。

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4 主要13ウパニシャッドの虫食い的抄訳
5 ヨガを日本に広めた先生が書いた本。