うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

瞑想とドレッシング

香味野菜ドレッシング先生
以前「デフラグ見てると、瞑想みたいだな。と思う」と書いたことがありますが、今日はより身近な材料で。
ドレッシングを見ていると、瞑想みたいだな、と思うんです。これは、たまに質問されたときの喩えにしていたけど、身近な材料なので誰もがイメージしやすいみたいです。


サラダにドレッシングをかけた後、テーブルに置く。
ずーっと見てると、つい一緒に瞑想しちゃう(笑)。



普段の生活(とくに情報や人と接している時間)は、サラダのためのドレッシング。
一日のあれこれを終えて、アーサナをして余剰エネルギーを放出して、坐す。
これが、テーブルに置いたドレッシングの状態。瞑想のはじまり。


瞑想というのは、説明しようと思っても、そりゃ「やり方」の話にはなるけれど、そのあとの質問は「人生相談」とけっこう区別がつかない。でも、きっとどなたの中にも起きる「作用の状況」は、こんなこと。
自分なりのバリエーションがいくつかあるのだけど(過去紹介分は末尾にリンクしておきます)、「ドレッシング」的な瞑想は、たくさんの人と話したり、たくさんの情報を処理したときに、有効。
あるひとりの人の感情をたくさんの種類受け取ったときも、有効。
(大勢の人の感情のときは、動禅的なもののほうがいいと思います。パワー受けすぎなので)


 自分のなかにある


  サトヴィックなものの存在は保てているのだけれど、
  ラジャシックなもの、タマシックなもの
  それぞれが混ざってしまっているとき。


※サットヴァ(純性)/ラジャス(激性)/タマス(鈍性)


ラジャス、タマスに寄るか寄らないかの状態で、いったん整理してみる。そんな感じ。
元来わんぱくなオイラは、ラジャスがぐわーっとあがってきやすい。



そうすると、何が起こるかというと、その整理は環境へと範囲が広がります。

 
 サトヴィックなことは、絶対に良い状態ですすめたい。(ここまでは、いい)
 なのにタマシックなあんなことやこんなことのせいで、足をひっぱられる。
 イライラする。


その後、何が起こるかというと、


 ・うっかり激性で同調してくれる人に愚痴を言って、自分のなかの火に油を注いだり
 ・鈍性に対してよくない感情を抱いてしまったり
 ・それらによって、純性の比率が減ってしまったり
 ・範囲が広がって、ぜんぜん違う攻撃性案件と結合して火事が広がったり


とにかく、誰でも後悔したことがあるようなことになる。


先に「あるひとりの人の感情をたくさんの種類受け取ったとき」と書きましたが、感覚が鋭くなれば、受け取る感情のひだは、細かくなる。「行間が読めてしまう」という状態。
これは、自分なりに思うことですが、「いちいち反応しない」というのは、感度を下げることではなくて、性質(グナ)の分類が瞬間的にできること。イライラの性質も落ち着いて観察すると、けっこう面白かったりするんです。推理小説みたいな面白さがある。(燃え上がるような恋とかは、当然できなくなります)


うちこはよく「緊張することとか、あるの?」と言われます。そんなにふてぶてしいでしょうか?(笑)
回答としては、「緊張の要素はありましたよ」ということになる。
いつからか、緊張するようなことをするときには、何らかの圧や摩擦によって自然に起こる自分の中の「火」に(これが、緊張の素)
「風を送らない」「油を注がない」ということを心がけるようになっていました。
イライラするようなことについても同様。(参考「心の火事は、誰が消す?」)


話をドレッシングに戻して、ここからは性癖炸裂の擬人化コーナー



これだけサットヴァ(純正)がきれいに分かれてくれたら、気持ちいいねぇ。おまけに和風味だしね!



こういう人がいたら、ちょっと関わりたくない。透明度が少ないうえに、ラジャス(激性)が荒すぎて恐い。


人前に出るときというのは、たしなみとして「混ぜて出す」ということなんだろうな。
じゃないと、人間味がなくて、美味しくないんだろうな。
さっき「ちょっと関わりたくない」って書いたけど、ああゆうドレッシングって、癖になる美味しさがあったりする。透明度が少ない分、ほら、ミステリアスな魅力があるでしょ。

ドレッシング師匠は、いろいろなことを教えてくれる。
瞑想は、最低○○分とか書いてあることがあるけれど、絶対的に分離させるのに時間が必要ということなんだろうな、というのもドレッシング師匠が教えてくれました。



・・・なんてことをつべこべ思っていないで、いいから食べろよ! ってな(笑)。