うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

知性改善論 スピノザ 著 / 畠中尚志(翻訳)

「エチカ」を読んでみたかったのだけれど、書店で見てこれはなかなか大変そうであるぞと思い、それよりも薄いこの本を読んでみました。
ところどころ章立ての項目がインド思想の教典に似ていて、そのような章は特におもしろく読めました。

「知覚の四様式について」「正しい認識方法について」「虚構された観念について」などはそのままヨーガ・スートラやサーンキヤ・カーリカーと照合しながら読むたのしみがあって、訳の影響もあると思うのですがこのスピノザという人物は思考の組み立てからうかがえる人柄がとても魅力的です。いじわるな感じがしません。
ひとことでいうと、好きになっちゃいました。語り口が哲学書にしては若干情緒的なのに、内容は仏教のかなりドライな区切りかたと似ています。やばい…、これはふつうに惚れてしまうやつだ…と、一冊の三分の一くらいで思いはじめていました。人の意識のはたらきは…、哲学すればこのように…、善とはこのようなものであるということもわかるけれども…、とはいえ「富」「名誉」「快楽」を目の前に差し出されたらばひとたび乱れちゃいます。みたいなことが、かなり序盤に書いてある。

 


そんな人が解く "人間が虚構したくなるマインド" の説明がおもしろくないわけがない。夢・虚構・誤謬・妄想について語る補記の文章がとびきり興味深いので紹介します。

虚構はそれ自体で見れば夢と大差がないこと、ただ夢では原因が意識されていないのに、覚めている者(虚構している者)にはそれが感官の助けによってわかっていて、それらの表象像が、現在自分の外にある事物から来ているのではないことを判断できるだけの相違であることに注意されたい。誤謬はしかし、すぐ明らかになるように、醒めながら夢みているのである。そして誤謬があまり甚だしい時、それは妄想と呼ばれる。
(方法の第一部。虚構された観念について 補記より)

「あの人」が「あんな口調で言った」のだから「あの人はわたしのことが嫌いなのだ」という発言をする人を被害妄想家として扱いたくても、その人の目耳という感官の助けがあったという事実はどこへ置いておけばいいのか。という具体的かつ日常にありがちな問題があったとして、そんなときにスピノザの本を開いてみれば、夢オチのバリエーションだということで煙にまかれる(笑)。

 


わたしはスピノザが言葉に用心しなければいけないといっている箇所がとても興味深く、それはまるでパタンジャリがヨーガ・スートラ第1章9節で警告するヴィカルパ(vikalpa)についての詳しい解説のようにも読めてくる。以下の箇所です。

また言葉は表象の一部を成すから、言い換えれば、言葉が身体の状態により漠然と記憶の中で合成されるにつれて我々は多くの概念を虚構するから、十二分に用心しない限り、言葉もまた、表象力のように多くの大きな誤謬の原因となりえることは疑い得ない。
(疑わしい概念について より)

頭の中で発生する言葉に用心し続けないと、醒めながら夢みている状態にすぐに陥ってしまう。だからこそ瞑想にはサンカルパ(sankalpa)が有用で、それは vi な kalpa を避けるための手段にもなる。サンカルパの必要性は「これがないと失言をするよ。自分に対して」ということでもあるということを、スピノザの「言葉が身体の状態により漠然と記憶の中で合成される」という警告によって再認識しました。

 


スピノザは言葉は表象の一部であるとし、知力をその表象力とは明確に区別するように、ともいいます。これはサーンキヤ・ヨーガでプルシャとプラクリティの明確な区分けが必要となる構造の理解を助けてくれるもので、しかもその文章がとてもよい。よいのです~。

そのほか我々は、知性が自らを反省するのに妨げとなつ混乱のもう一つの大きな原因を避けなければならない。すなわち我々が表象力と知力を区別しない限り、より表象しやすいものを我々にとってより明瞭だと思い、また表象しているものを理解していると思うことになる。この結果我々は、後にしなければならないことを先にし、こうして認識を進めてゆくための真の秩序が転倒され、正当な結論をすることが出来なくなるのである。
(疑わしい概念についての末尾)

表象力と知力を区別しようとする意志を発動させる知性の主であれと。


この「知性改善論」は「ヨーガ・スートラ」にある心理学的な部分と重なる要素がとても多く見えます。

知性改善論 (岩波文庫)

知性改善論 (岩波文庫)