「綺麗になるヨガ」「ヨガと冥想」「こんにちわ私のヨガ」に続いて、内藤さんの本4冊目。図書館にありました。昭和61年初版です。
ハンディな本なのですが、読んでみたらたぁいへん。立派な心理学本でした。ターゲットの「若者」ではないわたしでも、初めて知ることがいっぱい。内藤さんの初期以降の本全般に言えることですが、ものすごい研究をされたうえで、しっかりまとめて体系立てて書かれているので、そのへんのヨガのハウツー本の領域ではちっとも収まっていません。
まず一箇所、内藤さんの気持ちが書かれているところで、とってもそのご意向が理解しやすいフレーズがありましたので、先に紹介しておきます。
(164ページで)
私がマンダラ好きなのはジェット・コースター的ソウ鬱タイプで支離滅裂な分裂タイプだからだ。内向的で外攻と内攻がアクセルとブレーキのように同時に作動するから、自己コントロールしないと、自分で自分にふりまわされる。だからヨガを学んだ。ヨガは生活必需品だ。
ヨガやマラソンをしてみて、身体というのは「継続を力」にしていくのに、絶対的な経験や積み重ねが必要になる。読解力やアイデアだけでは、ショート・カットができない。そういう過程を踏んでいくと、人それぞれにスピードがあることとか、スピードに関係なくそこにそれぞれの気づきの宝が潜んでいることが体感できてきます。
いくつか紹介を続けます。
<28ページ みんな、エライんだ より>
タラコの一粒は、それぞれタラ(すけそう鱈)という大きな魚になる方向性をもって生まれてきている。タラコは、タラコとして生涯を終わるために生まれてきたのではない。
わたしたち、一人ひとりの個人としての自分(ME)もまた、おおきな集団(BIG)の一部としてのみ、生まれてきたのではない。それぞれの個人が、タラコが「タラ」への方向性をめざすように、大きな自分(BIG ME)になることを願い、ほんとうの自分自身になるという"成就"を求めているのだ。
これ、「世界でひとつだけの花」より素敵な表現だと思う。
<58ページ 人類の"意識の進化"のものがたり より>
おいしいものは、みんなでマネし、まずくて毒なものは通過(パス)する。みんなで協力することが、人間の特徴のひとつだ。
時代を超える原動力は、つねに個人(ME)だ。
個人がいつも、よりよい変化の方向へ、歯車(ギア)を変える。社会(BIG)は、個人(ME)の実験結果に学び、後からついてくる。
そう、あたりまえのことなんですよね。結果を求めるとき、その根源のところから同調して、協調していかないと、ほころびがでます。
<92ページ ガツン、ナデナデ…… より>
宇宙船・地球号の乗り組み員の一員として、自分以外の他人にも喜びを与えつつ、自分の願いを実現していく、という「自他一如」の方向性と方法を知らないのが、困る。自我(エゴ)だけで生きると、みんなを敵にしてしまう。結果的に、ソンだ。
アムロを見てイラッとしながら、学ぶのだー。
<102ページ どっちも負けるな! 犠牲になんかなるな!! より>
対立した者同士は、対等に「自分」を大切にしなければ、マンダラをつくれない。イヤなことはハッキリという。どうすれば、双方がニッコリできるのか、ホンネをぶつけあい、双方で知恵を出しあって、"本気"で、新しい関係の型を、この世に創造する。それがマンダラだ。
そうそう、これね。ちょっとハッキリ言ったからって……ちゅう話ですよ。
<105ページ 自他未分と、自我一如のコワーイちがい より>
マスローは、マンダラ的な「自他一如」の境地を、「至高体験」とよんでいる。
「頂上体験」「高頂体験」であり、頂上(ピーク)の感覚、高揚感(ハイ)を彼は「至高体験」だという。
たとえば、恋愛、セックス、LSDなどの薬物による高揚感。音楽、本、絵画など芸術的な感動による恍惚感。なにかをやりとげたときの有頂天の瞬間。悟り、宗教的啓示、回心などの無我の境地。これらを一緒にして、マスローは「至高体験」というのだ。
フロイドのいう、我を忘れた「忘我」の境地の統帥や恍惚(エクスタシー)を示す、「大洋感情」という「自他未分」の状態と、マスローの「至高体験」は似ている。「自他一如」の悟りの境地まで一緒にしているので、話がややこしくなる。
(中略)
マスローでさえ、ゴッチャにしてしまうのだから、「自他未分」の"我"を忘れ、正気を失った「忘我の境地」と、"我"が無いような「無我の境地」の「自他一如」を『同じ』にしないでほしい。『ちがい』をシッカリとつかまないと「意識」などは集合無意識の元型イメージのパワーに呑みこまれる。自分を見失う。自我(エゴ)は、近代に生まれたもので、"古い心"の連合軍にあったら、ひとたまりもない。
そうなのねぇ。はやりの「スピリチュアル」の落とし穴。
<110ページ 「男」の元型イメージに呑みこまれて、自他未分になると…… より>
彼の自決直前の自衛隊での演説を録音したレコードを、私はもっている。笑い声とヤジと怒号の中で、声量のない160センチちょっとの小柄な三島が「君たちは武士だろう!」と叫ぶ。自衛官たちは爆笑する──。孤立した三島はピエロのように一人で浮いていた。号令なれした野太い声が彼に「ヒッコメ!」と叫ぶ。自衛官たちは醒めており、近代的な個人の集合体だった。サムライである以前に彼らはその時、市民だった。三島の求めた陶酔はそこにはなかった。
以前「黒蜥蜴」(三輪明広さんが丸山明広さんの頃の乱歩映画)について、五木寛之さんの本の感想の中でちょろりと書いた(リンク先の項目137ページ)ことがあるのですが、あの一瞬の出演の絵だけでも、この様子が伝わってきました。22歳くらいのときに観たのですが、なんともいえない怖さがありました。
<157ページ 中心は、人間の「全体性」だ より>
ハイゼンベルグの「不確定性原理」は、"見る"という行為が、すでに現実を変化させてしまうということにもとづいている。電子顕微鏡で、粒子(クオーク)の世界を見ようとすれば、電子が粒子をはじき飛ばして、"あるがまま(レット・イット・ビー)"ではない現実をつくってしまう。なにも"確定"した現実はなく、すべては相対的で流動的なのが、この現実世界だ。諸行無常の変化する世界だ。
お勉強は苦手なのですが、ハイゼンベルグさんにも興味がわいてしまいました。
<190ページ 三人の「元型イメージ」── 英雄、永遠の少年、老賢者 より>
ニーチェが教えていたバーゼル大学へ、ユングが入学したとき(1895年)、ニーチェはすでに発狂していた。ユングは、自分の内部のニーチェ的な部分を飼い慣らしながら、自分が自分である方法を、捜していた。そして、フロイドに出会い、人間の中の暗黒面である、無意識の世界に導かれた。
フロイドにとって、無意識の世界は、ドブドロのような醜悪な世界だった。長い間、理性的な意識によって、抑圧されてきた闇の世界の扉を、彼は一気に開いた開拓者(パイオニア)だ。モロに、泥をかぶってしまった……。彼がてんかんの発作をくり返したのも、うなずけるような気がする。
ユングは、ゲーテの『ファウスト』の、悪魔の道連れにした心の旅にも共感していた。ユングは、フロイドのように闇の世界を、悪・×(バツ)と決めつけず、地獄の底まで降りていった。そのとき力になったのは、東洋のマンダラ的発想であり、そのための方法、冥想だった。
彼は、S・ローザクの"聖なる業"のほとんどの分野に興味をもち、ユング心理学として統合していった。そして、東洋的な"老賢者"のように成熟し、八十六歳の生涯を終えた。
こんな風に、信長・秀吉・家康のような流れでまとめてくださると、より学びやすいですね。
おもしろいでしょぉ、この本。スパンクもいけるけど、ガンダムもいけちゃうんですよ。すごいですねぇ。おまけにビートルズも西遊記もいけちゃう、ってなもんだから、たまりません。
この本の内容のいくつかは一つのテーマで取り上げたいと思ったので、以下の4つの記事に分けて紹介しています。
★内藤景代さんの他の本への感想ログは「本棚」に置いてあります。