うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨガに生きる ヨガ叢書〈第1巻〉沖正弘 著

ヨガに生きる
以前感想を書いた「人間をつくる ヨガ叢書〈第3巻〉」の第一巻です。これも初版が1970年。この頃、連続して出版されたもののようです。
章の途中で文章が切れたままプツッと次の章に移ったり、新旧かなづかいが混在します。口述をまとめられたものとして、そういうところにリアルさを感じる昭和の一冊。
この本の見どころはなんといっても、巻末にある、沖先生の奥様である沖マサ子さんが語る沖先生のお話。奥様の名前が、なんだかダジャレのようにマサ子さん(笑)。この夫婦のお話は、変わった夫婦に見えるのかもしれませんが、ここで沖先生がおっしゃっていることにわたしは共感するところがありました。沖先生の本音がチラ見えするエピソードもあります。巻末に、大江健三郎さんとの対談も収録されています。
いつものように、メモしたかったところを紹介します。


<9ページ ヨガとはどんなものか より>
 ヨガにおける悟りの状態とは、智、情、意、及行動が真実に統一されている状態であって、この事をわかり易い言葉で表現すると心と体の働きがバランスのとれている状態である。すなわち、戒、定、慧がスムーズに展開されている状態でもあり、主観と客観と絶対とが一如化している状態である。

「主観と客観と絶対とが一如化」って、名言だなぁ。


<28ページ 自然心への道 奉仕心がヨガ心 「出しきることに徹せよ」より>
私達は奉仕生活者になるために、自分の体と心とを次のように意識的に養わなくてはなりません。
一、能力をたかめること。
一、出しきる工夫をすること。出しきる工夫を積極的生活といいます。
一、出しきる心を養うこと。この心の中心となるものが愛の心、他のことを思う心であります。

なんでも出しきることは大変であり、気持もよいもの。便秘も悪だ、というお話がこの後でてきます。


<29ページ 自然心への道 奉仕心がヨガ心 「学ぶ者のみが救くわれる」より>
 他人の汗と涙の結晶を、貰いっぱなしで平気でいることは最大の神経麻痺であります。神経麻痺が心身及び生活の異常をつくりだすのです。悩みは心と生活の神経麻痺からの回復要求であります。ですから自分も汗と涙の結晶を他のためにさし上げようと努力する生活が、自分と社会に進化をつくりだす自然心であると思います。怠けることは、動物にも人間にも許されないことなのです。

「怠けることは、動物にも人間にも許されないこと」。この後の引用と連動します。


<38ページ 自然心への道 奉仕心がヨガ心 「自己の責任をもつのだ」より>
 人間社会の場合でしたら、他の者にたよって生きていけます。しかし他の動物の世界では誰も助けてくれません。「オレはちょっと今日は具合が悪いから、餌をかわりに取って来てくれないか」とたのんだところで、誰も取って来てくれません。「オレは怠けていて、食物を貯えておくことが出来なかったから、少し貸してくれ」とたのんでも誰も貸してはくれません。
 このように、自分の生命と生活とに全責任を持って生きる努力をするもの以外は、生きていくことを許さないのが自然法則なのであります。

「アリとキリギリス」の教えを、あらためて理解しなおしました。


<52ページ 自然心への道 奉仕心がヨガ心 「宗教的な生き方をするには」より>
 食うことばかりを考えて、便を出さない人がおります。こういう人は、皮膚の色が汚なくなります。皮膚と神経は、一つのものなのです。もらうことばかり考えて、出すことを少しも考えない人を精神的便秘症といいます。

「精神的便秘症」とは、うまいなぁ。


<55ページ 自然心への道 奉仕心がヨガ心 「心の四つの力を高めよ」より>
 人間的自然心を高めるためには、次の四つの心を高める必要があります。
 それは、感知力、理知力、霊力、実行力の四つであります。感知力を高めるには、肉体的修行が必要です。理知力を高めるには、学問が必要です。哲学性と科学性を身につけるのです。
 霊力とは目に見えないものをもつかみ取り得る能力のことであります。多くの者は、目に見えるものだけを考えようとします。ところが、自分に見えないもの、自分が考えてもわからないものにも支配されているのであります。

執着が減ってくると、取り越し苦労も減ってくる。想像の産物なんですよね。


<63ページ ヨガと人間生活 人間的生活をせよ 「体の成長と心の成長を一致させよ」より>
 自分の欲望も自分で管理できず、自分の感情も自分でコントロールできず、自分の意志も自分でコントロールできないというのは、心の成長が停止していることです。心の成長が戸籍年齢と正比例して成長してこそバランスのとれた心身の発達といい得るのであります。この心身の発達のアンバランスの者が多いのではないでしょうか。

きちんと歳を重ねていかなくちゃ。


<90ページ ヨガと人間生活 人間的生活をせよ 「人間的に生きている心、体、生活」より>
 人間的に生きている心、生きている体、生きている生活とは何か。それは絶え間なく変化しながら、いつもバランスがとれておりしかも進化していることです。不平だとか、不安だとか、不満だとか、怒りにとらわれるのは進化が止まっているからです。執着や癖は新陳代謝の止っている状態です。これでは死んだ心になってしまいます。

「絶え間なく変化しながら、いつもバランスがとれている」という状態に持っていく修行は、社会にドスンと身をおいて、その中で学ぶのがいちばんじゃないかな、と思います。


<97ページ ヨガと人間生活 人間的生活をせよ 「一切を自己の問題として感じる心」より>
 私自身の内容を知らせて下さるために、私というものの実体を気付かせて下さるために、私に道を教えて下さるために、この問題もあり、あの問題もおこり、あの物もあり、この事もあるのだと、一切を自分にかかわりあるものとして感じる心を "生きている心" というのです。死んでいる心ではこういうことを感じません。生きている心を養うためには、意識的にすべてのことを自分の問題として感じるように心がけることを練習しなくてはなりません。

「なんで私ばっかり」とか「なんであの人はあんなに楽をして……」という人がいるけれど、「そんなあの人と、人生取り替えたいと思う? それなりの楽しみしかないのに」と思う。


<109ページ いつわりなき生き方を 「きばり続けると疲れる」より>
 心身を上手に休ませて使うコツは、長時間休むことではなくて、短時間の働きの後にくつろぐことをくりかえす方法であって、この働きと休み交替をできるだけ早くくり返すことがスタミナのコツであります。(中略)疲れを感じずに働く方法は、全身的な使い方と休め方の工夫をすることが肝要です。

全身的に聞いているフリをしながら休む練習をしているんだけど、たまにバレる。まだまだだ。


<149ページ どのように求道したらよいか 「物事の奥義について」より>
 二十五、六年前のこと、私にはまだ裁く心がありましたから、無心になるつもりでやったことがかえって有心になってしまったということがあります。あとでわかったのですが、私はいろんな教えや、その人や、団体に接した時、いつも自分勝手な解釈をして勝手に感激し、勝手に裁いていたのでした。無心で求めようとしてやったことのすべてに有心になってしまいました。
 心は流さなくてはならないのです。喜怒哀楽を感じるのは人間の条件の一つです。感じた上で流せばいいのです。が、私は一々とらわれていました。心は流さねばなりません。心を流す、体を流すことを浄化法といいます。

「感じた上で流す」。あるものをなくすのではなく。


<214ページ 自己浄化への道 祈りと禅定について 「拝む心が生きている心である」より>
 共存共栄の心とは何か。それは生かし(他を)生かされる(自分)生かし合いの心であります。ここに敵味方の差別がありません。自分をうけ入れてもらうのです。他もうけ入れてあげるのです。これが敬いの心であります。すべてのことを、このままでよしとうけ入れることができたらニルバーナ(最高の平静)の心境であり、この心境の前にはすべての運が善きものとして好転してゆくのであり、この心になることが救われる資格であります。
 祈り、禅定共に丹田力(生理的安定力)と感受力(安定平静な時ほどよく働く)とを最高度にみがきあげることを、その目的としているものです。この両者が神(統一者)と直接むすびつくものですから、この行法を自己内在の神を開発する行法といってもよいのです。
 この統一を弱めるものが、ゆがみ、過不足、偏執見等の不自然であり、この不自然が心身及び生活のバランス、すなわち平静を破るのです。
 ヨガ及び各教の古聖人達は、このバランス(真実の姿すなわち無の姿)を保つにはどうしたらよいかということの求道から、直接的にこの宇宙の中には相反した二つの力が与えられており、この相反した二力の協力和合によって、一切のものの生滅が現じられているのであるから、この二力への協力和合の工夫が、すなわち正しい生き方であるという真理を把握し、そうして、それを教えとし、行法としたのでありました。
 その代表的なものが中国の陰陽哲学であり、インドのヨガ哲学であります。そのバランスのとれている窮極の状態を説いたのが老子(タオイズム)であり、それに到る生活法を具体的に例示されたのがシャカであり、それらを端的に実行にうつしたのが密教であると思います。

まとまりとして、メモしておきたいと思いました。


<219ページ 生命を大切にして下さい(一) 疲労感の正体について より>
(国会議員の集い、春秋会の講演から)
 疲労感というものは心と体の使い方が偏っているとか停止しているとかという意味の警告でありまして生理的な休養命令ではないのです。このにせの疲労にだまされないことです。
 それでは、このにせの疲労にだまされないのにはどうしたらよいのかと申しますと、同一の神経、筋肉の使い方をしないこと。
 食べすぎないこと。
 休ませすぎないこと。
であります。

「休ませすぎないこと」というのは、本当にそう思います。食べることは、つきあいがあったりするのでなかなか胃袋の要求に添えないこともありますが、「疲れるまで寝ない」「疲れたときだけ寝る」というのもとっても大切なことだと思います。


<268ページ 生命を大切にして下さい(二) 栄養食物について 正しい食べ方について より>
まるで食べていけないものと、よいものがきまりきって存在するかのように、びくびくして食べている善悪ノイローゼがおります。その証拠にそのことを守っていると称しているものほど、頭も体も一寸異常なようです。

文末に思わず笑ってしまった。「言い訳して食べるより、何も食べないほうが・・・」というのがものすっごく素直な本音。


<288ページ 身体を丈夫にするには スタミナのある生活には より>
 体は、色々なホルモンを出して神経と筋肉を刺激し、これが行動への意欲を起こさせ、ファイトももやさせるのです。だからこのホルモンの分泌が十分に動員されないと筋肉が硬化し神経が変になりだるくなりこのために動きたくも考えたくもなくなるのです。
 しかもこのだるさの疲労感の特徴は、何もしたくなく考えたくもないのに神経だけがやたらに焦り立っています。このだるさは休むほどひどくなります、若者は山登りやスポーツをする方がこのだるさから解放されることが多いのです。
 このようにエネルギーがたまりすぎると、それを自分の一番消耗し易い方向に無意識に消耗しなければならないことになりますから、もし悪習慣が身についていますと、病気、異常心理、非行等の方に使うわけです。私は病気やノイローゼの七、八割はこの残留エネルギーの異常消耗だと思います。「小人閑居して不善をなす」とはこのことです。

残留エネルギーの恐怖は、日々普通にあちこちでその言動が散見されること。エレベーターの「閉」ボタンを執拗に連打する人とか、なにもそこにカロリー使わなくても・・・、と思う。



↓さて。ここから、奥様登場です

<305ページ 二種類の世界(一) 沖マサ子 より>
 気付いてみると、私達はウソの世界にウソとも思わずに生活しております。変わる世界に、変わらずに生きております。平等の世界に差別を見、差別を求めて生きております。ウソの世界、自分できめた世界、差別の世界に生きている私には、この反対世界に生きていらっしゃる先生が、ウソのように、変わるようにみえたのでした。はからって生きている人とはかられて生きている人のちがいでしょう。

これは、プロローグ。

<308ページ 二種類の世界(一) 沖マサ子 より>
 人を真実に救う道であるから、是非組織化し、道場もつくり、弟子も養成してと思いました。私だけでなく、数多くの方が、進言されるだけでなく、協力をも申しでられました。しかし、何時も先生は「あなた方がやりたいのならおやりなさい。私はいやだ」と答えられました。
 そうして、その理由として、次のように申されました。
「組織をつくると、他と対立しなければならなくなり、道場をつくると、その経営維持にとらわれなくてはならなくなる。私は真実探求の為に、無の立場と心境で、生きてゆきたいのだ。私にとっては、すべての者が先生であり、自分の未熟不徳を知っているから、弟子などと考えることもできない。」

「組織をつくると、他と対立しなければならなくなり、道場をつくると、その経営維持にとらわれなくてはならなくなる」。ご本人は、そう思っていらっしゃったのですね。


<309ページ 二種類の世界(一) 沖マサ子 より>
先生は、病人治しが、嫌で嫌でたまらなかったらしく、しばしば止めたいとなやんでおられました。いくら止めたくても、次々とお尋ね下さるので、どうしようもないのです。なぜ止めたいのですか、とお尋ねしましたら、「病気の治りたいと願う人と、金もうけしたいと願う人の根性は同じことだ。両方共慾でけがれているからしていただきたいことは、報恩感謝の心と、その生活者になっていただきたいことだが、結果はその逆だよ」と言われました。

沖先生の人間味に、読んでいて少しほっとする一説。そして、「それでも、やってたんだぁ」と励まされもする。


<310ページ 二種類の世界(一) 沖マサ子 より>
(渡米時の解脱会で奥様に使命を託し、先に帰国される流れです)
その結果はどうだったでしょうか、金もうけのためにがんばるのだとうけとられたようです。先生も俗人の心に気づかれたのでしょうか、この二つの言葉を残して帰国されました。
 一、信者の方に、報恩感謝をおしえて下さい。
 一、私はささげる生き方こそ宗教心であると信じています。そうして、それを実行してみました。しかし、受けとりうる能力のない者にささげると、かえって逆の結果になるのだとうことを知りました。乞食に物を与えれば、更に乞食根性がますだけです。ささげるには先ず受けとる心をつくる方のことが先でした。

「ささげるには先ず受けとる心をつくる」これは、大きな命題。そんでもってそれ、奥さんに託して自分は帰っちゃのがスゴイ(笑)。


<321ページ 二種類の世界(ニ)沖マサ子 感恩に徹し人です より>
(奥様が他人の言葉に傷つき、悩んでいるときの沖先生の言葉)
「万一自分の理解がまちがっていたとしたらどうするのだ。誤解でその人を傷つけたり、殺したりしてしまうことさえ多いのだ。まちがったら、おわびすればよいだろうくらいに考えているかも知らないが、人はおわびや感謝をあまりにも簡単に考え、軽々しく扱っているのではないだろうか。」

この話、ほんとうにすごい。


<332ページ 二種類の世界(ニ)沖マサ子 感恩に徹し人です より>
(奥様が、女心として傷ついたというエピソードから、沖先生の言葉)
「夫婦は都合上のものだ。女はお前だけではない(これは肉体上の意味ではありません)俺は男からでも女からでも、できるだけ学びたいのだ。誰もが皆好きなのだ。お前も、俺一人にこだわる必要はない。もしこの人とつきあったら、自分のためになるとゆうような男性があったら、大いにつきあえよ、自由に行動できるように証明書をつくってやるよと。紙に、記名捺印して、「この女性は、私の妻でありますが、私のよろこびは、彼女が進歩向上し、生きていることをよろこんでくれることであります。あなたにこの意味でのおつきあいを、もしも彼女がお願いいたしましたら、よろしくたのみます。」と書いて下さいました。

 (その後、奥様にある男性からデートの申し込みがあった際のエピソード)

先生にこのことを申し上げましたら、「行きたければ、行ってこいよ。ただし条件があるぞ、それは一番よい服装をして、キレイにしてゆけ、俗人はそんなのが好きなのだからね。」といわれました。そう言っておきながら平素の先生は、私の服装や化粧などにはまるで無関心なのです。

この沖先生の言葉、すごく共感しちゃうんですよね。男も女も仏像も並列。一人に限定することは、排他ではないというのがバランスした生き方なんだろうけど、なんかそもそもその考え方の時点で、少しややこしいと思ってしまう。


<340ページ 大江健三郎対談 ヨガの中心人物はどうつくられたか 「禁」を禁じなる自己調節 より>
大江:結婚してはいけない規則があるのに、なぜヨガには強精法の研究まであるんですか。
沖:タントラ・ヨガといって、人生の重要問題の一つとして、ヨガは能力を高めてそれからコントロールするのです。一つの研究部門にすぎないんです。ヨガには才能開発法として七十二道あるんです。たとえば、絵画ならブラシ・ヨガ、……文学ならリキタ・ヨガ、……自分のどんな才能を開発するかによって、名称がちがってくるわけです。

大江氏の質問が、直球でいいですね。そしてこの、返しもいい。文学ならリキタ・ヨガ。マントラの写経をリキタ・ジャパと言いますが、書く人もまたヨギなのですね。


<350ページ ヨガは修行の宗教である (2)冥想行法の実施法 より>
 目をつぶって瞑想する場合には、第一に、目玉を意識的に後へ引っ込めるつもりになります。この為に必要なことは、あごをぐっとうしろへ引きあげることです。あごが出ると弛緩していまいます。だから寝る時には、意識的に目玉を前に出すと眠ることが出来ます。たとえば腰の力をぬいて腰を後に曲げると、眠たくなります。あるいは講義中に眠ってしまうのは、腰の力がぬけて目玉が前に出るからです。

眼球の置きかたについて書かれていたのはあまり見なかったので、メモ。



昭和40年代の沖先生の本は日本のヨガの古典として役に立つだけでなく、その時代感あふれる表現がおもしろい。今じゃ使えないような用語もいっぱい飛び出してくる。正しい日本語の名作文学小説は昔のものも読むことができるけれど、自分の親が20代の頃、こういう日本社会で子を持つ時代だったのだなぁと想像することができる本というのは、ちょっとおもしろい。
いまは「うつ」って書くけど当時は「ノイローゼ」。それをまた今に変換すると、「ノイローゼ」ってもっとすごくヤバい感じを想起させる言葉と思っていたけど、そうじゃないんですよね。

ヨガに生きる (ヨガ叢書)

ヨガに生きる (ヨガ叢書)


沖正弘先生の関連書籍はこちらにまとめてあります。