お名前はなんとなく刷り込まれやすいので見慣れていたのですが、読んだのは初めて。精神科医の先生であるとは、知りませんでした。本箱に長らく寝かせてあったのですが、ふと読もうという流れに。
ここ半年、仕事上でいままでにない性質の自問自答をくりかえす日々が続いていました。あまり人には言えない性質のことだったので、ずっと自分の中にしまっていました。
この本を読んだとき、スッとこの自問自答があまりにも普遍的なことであるように思えました。
仕事の環境のこともそうだけど、なださんはアル中患者のこともちょいちょい書いてくれているので、わたしの家庭環境のあれこれな面で「そうなのよねぇ」ということがあって、一石二鳥といってはあれですが、とにかく普通にいろいろなことを現象として受け入れていくのに、支えというよりも、立っている自分にシンクロして歩いてくれるような、そんな本でした。
なださんは80歳を越えた今、ブログを執筆されています。
よい質問は、下手な答弁にまさる(なだいなだのサロン)
9月のエントリー「あと33冊」には、こんなことが書かれていました(抜粋)
精神科医には医師の免許がなければなれないが、「こころ医者」にはだれでもなろうと思えばなれる。そのための講座がこれです。他人のためのこころ医者になるには、まず自分が「自身のこころ医者になる」ことから始めねばなりません。本来、精神科医は「こころ医者」だったのですが、病気を治すクスリなどが出てきたために、「クスリを出す医者」「クスリで治そうとする医者」になってしまいました。病人が多すぎるせいもありますが、忙しくて「こころ医者」などやってられない」ということなのでしょう。
ところで、こころ医者にだれでもなれるということは、同時にこころの病気には、だれもがなる可能性があるということです。つい最近、ひとりの大臣が、アルコール依存であり、大臣だって例外でないことを示してくれましたし、その前に、内閣を突然投げ出した首相も、今流行りの「うつ」ではなかったか、と思います。国を治めるより、まず自分を治めよです。
(中略)
そして大切なことは、こころ医者になると、自分が未熟であったことが、よく分かることです。
ともかく、ぼくはこころ医者が流行りになってほしい、と思っています。こころの病気であるということは、まだまだ成長する必要があるということです。
「自身のこころ医者になる」って、ヨガね。Ayurvedicでもなく、Europedicでもなく、Selfvedic.
(Europedicは、インド人の友人ラフルの造語)
ここからはいつものように、心にメモしたかった箇所を紹介します。
<11ページ それでも、私は人間 リンゴはリンゴ色 より>
言葉は、そもそも符丁にすぎないし、言葉そのものが、よかったり、悪かったりしても困ります。言葉は、ある物事に対しているだけで、言葉の価値は、その対応の正確さによってだけ、はかられるべきです。いや、実は、それは、私の希望であるので、現実の言葉は、物事と切り離されて、それほど身軽になっていてくれないのです。
言葉のイメージがタレント化してしまったような気持ち悪さに、はじめに自分で整理をつけていらっしゃいます。昨今でいうと「ポジティブ」とか「前向き」とかって言葉の使われ方がとってもアンバランスなすわりの悪さ、みたいなことです。うちこは、「前進しかしない車、あんた買う?」という話をよくします。
ちなみに余談ですが、同僚と昼食を食べながら、「仕事上の"対応のコミット"を暗黙で差別的に求められる場面」について、「なんか、デートに全裸で来いという理論なんだな、あれは」という話をしたら、思いあたることがあったようで、はげしく同感されました。
<18ページ それでも、私は人間 ニヒル・フマニ・ア・メ・アリエヌム・プトー(人間的なことで、私の関心をひかぬものはなにもない。) テレンチウス より>
「お前は、それでも日本人か」
といった人々は、日本精神、日本文化、日本人の魂といった言葉を乱発しましたが、いったいそれらの人たちが何をしてきたかというと、日本を破壊してきたのでした。いや、日本をというと、誤解をまねきます。私たちの、ふるさとを破壊したというべきでしょう。明治以来、どれだけの城が焼かれてしまったか。寺院が失われたか。その中にあった芸術作品が消え失せたか。考えれば、おどろくほどです。そして、靖国神社をはじめ、東郷神社、乃木神社と軍人をまつった神社が建てられていきまた。それは象徴的です。
ほんとうに。神仏に託された魂が、冷静な想像力の範囲では想定内であったであろう「恨みの魂」のために消される必要があったのか。
<25ページ それでも、私は人間 人間なのか、おれなのか より>
王の墓を作るために何万の人間が汗を流し血を流さねばならなかったかに思いいたってもいい。死者のために生き残った人間が苦しめられる矛盾を、考えてもいい。つまり、死者に対する礼節とよばれる人間的なものは、それは死者中心的でありすぎて、生きた人間をかえりみないものだということに気づかれてもよいように思うのです。
「死者中心的でありすぎて」というところを、「ある範囲の価値観を意識したときに"弱者"と定義されるものを中心としすぎて」と置き換えられる状況が増えているように思う。「奉仕」と「弱者の尊厳」の間でつぶれていく人が、いまは増える構造になっている。
<52ページ 残酷と想像力 人間は知らなければどこまでも残酷になれる より>
生活がかかっていると思うことが、どれほど私たちを残酷にさせるか、残酷であることを許してしまうかを、考えねばなりません。そこに組織に属してしまう、個の特性を失ってしまうことの、残酷のはじまりがあります。人間が二人集まります。力は倍になります。しかし、責任は半分になったと感じるのです。組織の中では個人は消え、役割だけがのこるのでした。そして、役割の責任は、その役を去ることで自分から離れていきます。そのようなぐあいで、組織の中に入った人間は、想像力から遠ざかり、現実との接触を失っていきます。
(中略)
組織に入った人間は、自己をその組織に所属させることで、組織に感じさせ、組織に考えさせて、自分が個人的に考えることをやめようとつとめます。それが組織と一体化した感じを与えるからですが、そのため、どうするかというと、誰でもが考えること、つまり考えの共通点を求めていくのです。
考えの根源ではなく、共通性を求めるほうが、はるかにラクであるからでしょう。「○○さんもおっしゃっていましたが」というのは、組織の中でデキる人の話し方のセオリーってなにかの本に書いてあるの? っうくらいみんなやりますね。明らかに天井の低さをさらけだしている気がしなくもないのだけど、低くない感じが出せればいいみたい。
<55ページ 残酷と想像力 人間は知らなければどこまでも残酷になれる より>
美という抽象化が、私たちを対象から遠ざけ、逆に想像力が、対象をなまなましく目の前に見せます。美しいものに抑制力はありません。美化された戦争は、私やあなたをさそいこみ、残酷で醜い戦争を想像できれば、それが抑制となって働くでしょう。こう考えると、二十世紀の個人の想像力の貧困化が、いかに不吉な意味を持つか、あなたにも感じとられるのではないでしょうか。
美と美化は、対極にある?
<97ページ わかりいそぐこと わかるのは十年後に、二十年後に より>
十九世紀的物理学の最後の物理学者ともいえるアインシュタインは
物理学は実在を概念的に把握しようとするくわだてである。
といいまいたが、それは、概念によって物事の支配を企てようとした、十九世紀までの実証科学精神を、もっとも明白にいいあらわした言葉です。
だが、年齢的には、アインシュタインより、わずかに年下のニールス・ボーアは、もう次のようにいいます。
自然がいかにあるかを見いだすことが物理学の任務であると考えることは誤りだ。物理学は、われわれが自然について何をいいうるかに関するものだ。
ここに、二十世紀がひらかれた、と私はこのボーアの言葉を見て思うのです。
ボーアさんの言葉の主語・述語の位置。「われわれは、生かされている」という配置。
<99ページ わかりいそぐこと 同一化的理解と黙示録的な世界 より>
もし、日本の社会で、まだ一を聞いて十を知る聡明さが、尊重され続けているのならば、それは日本の社会が、まだ縦割りの構造をのこしており、そこで上のものの意図をはやく知ることが聡明さとされている証拠でしょう。
そして、この聡明さの存在するところ、あらゆる意味ありげな物事は、わかりいそがれ、意味づけられていきます。
「わかりいそぐ」って、すごい表現だなぁ。
<104ページ ケシカラニズム考 ── ケシカラン感情と社会主義 ── 見なれぬ言葉でありますが より>
そもそも、ケシカランという言葉ほど、言葉の意味の歴史のうえで、奇妙に屈折しているものは、あまりないように思います。この言葉は、普通と異なっている、つまり現在では「異常」という言葉で表現されている「異し(けし)・怪し(けし)」から作られたのでした。
〜ここからはちょっと長いので要約しますが、普通ならその否定形なので「あやしくない」となるはずなんですね。そして、ここからが面白いのですが、農耕文化時代は、異常なもの(天候とか)は「悪」だった。それが、生産にたずさわらない宮廷人たちの人工的な文化が支配する時代になると「異し(けし)・怪し(けし)」はむしろ日常の倦怠をやぶる「面白いもの、おかしいもの」という、「善」になった。それが、「異常なものを面白がるなんて、とんでもない」というという否定に至ったと。
日本語の文化のこういう価値観による名残りについては、前に上野千鶴子さんの本の感想でも「買春を売春と言いくるめるとか」という表現のところでメモしたっけ。言葉に潜む、その時代の「俺ら的に、こう」というのは、まだまだあるんだろうな。
<128ページ ケシカラニズム考 ケシカラニズムと社会的連帯感 より>
ケシカラニズムの根本に、個人の怒りがあります。怒りは、個人が傷つけられたり、傷つけられそうになったりすることで触発される感情です。しかし個人は、その自我を肉体から外側へと肥大させ、その肥大させた表面が傷つくと自分が傷つけられたように感じて怒るのです。肉体が傷つけられた時に怒る、自分の服装がよごされた時に怒る。自分の名誉が傷つけられた時に怒る。家族がブジョクされた時に怒る、自分の学校の名誉が傷つけられた時に怒る。自分の国が名誉を傷つけられた時に怒る。そんなふうに、私たちの怒りは、外側へ外側へとひろがりながら、次第にそのひろがった輪の中のものとの連帯を深めていきます。
そこにあるのは、自我の肥大です。自我が、その核の密度とかたさを失い、ブヨブヨと肥大しながら大きくなっていくのですが、私たちの自我は、表面にいけばいくほど感覚が敏感になります。ですから、自分の外側に起る事件に対して、どこまでケシカラン感情を起すかが、本人の自我の拡大の限界を知る手がかりをあたえるでしょう。
この自我の肥大が、父親の方に神の方にと向けられていった時、私たちは、いつの間にか神の立場にたって、つまり支配者の立場に立って、ケシカランとつぶやいてしまうことすらあるのです。
「自分の外側に起る事件に対して、どこまでケシカラン感情を起すかが、本人の自我の拡大の限界を知る手がかり」「私たちは、いつの間にか神の立場にたって、つまり支配者の立場に立って、ケシカランとつぶやいてしまうことすらある」という警告は、メディアに触れるとき、いつも頭の片隅においておきたい。
<214ページ 小さい大人と大きい子供と なぜ、殺したあとで泣く より>
(「愛のために死す」という映画とその元になったフランスの実話「ガブリエル・リュシェ事件」のエピソードから)
宗教は、道徳的秩序を地上に要求しますが、同時にゆるしを内在させています。しかし、その宗教を否定しながら、道徳的秩序だけをまもろうとする人には、ゆるしがありません。ゆるしを内在させない秩序のおしつけの残酷さ、それを考えて下さい。彼女(ガブリエル・リュシェ)は、自分が迫害を受けることで、そのことを認識したのでした。
この本で初めてこの事件を知ったのですが、これだけ情報が氾濫するなかで、びっくりするほどネット上に情報が無いんですね。不思議。
「その宗教を否定しながら、道徳的秩序だけをまもろうとする人には、ゆるしがありません。」という言葉もすごく印象的。
普段思ういろいろなことを再認識させてくれるような本でした。「自分は哲学者でも心理学者でもなく、気持ち悪さの原因を追究することなく日々を送る。送っているんだ。ほんとうにこれが普通だ」と。こういうことというのは、それでも日々少し意識することで、かわっていくものなのかな。
★なだいなださんの本の感想はこちらの本棚にまとめてあります。