うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨガと冥想―入門から神秘体験へ 内藤景代 著

以前ここに感想を書いた「綺麗になるヨガ ― 心とからだを波動から美しく」と同じ著者さんです。この方は沖先生のお弟子さん。その後ほかのヨーガも学ばれた後に、この本が1991年に発行されました。思想、哲学、起源、理論、瞑想、アーサナ、そして誤解されがちな様々なことへの警告が一冊にまとめられています。前回紹介した本もそうでしたが、凝り性でとことんな人なんだろうなぁ、というまとめっぷり。素晴らしい。
なかでも、「誤解されがちな様々なことへの警告」への言及時の言葉の選び方がうまいなぁ、と思うのと、そこにチラチラ出てくる強い言葉に「沖っ子だわぁ」な要素が感じられ、面白さも感じます。女性の視点で、女性の選んだ言葉で書かれているものは、また別の趣があって、そこも魅力の一つ。まだここには書かずに心にしまっていた「古代ヨガの記述にある、ものすんごい男尊女卑なニュアンス」と全く同じ話ではないのですが、似たような感覚で書かれている箇所があり、激しく共感しました。

この本については、まず、さまざまな実践を経て語られる著者さんの「ヨガへ向き合うスタンス」の意向記述を初めに紹介しておいたほうがいいかなと思いました。3箇所抜粋。

<159ページ ポーズ・呼吸法・冥想の円環構造 より>
 ヨガのポーズは気持ちのよいものですが、その快感に陶酔するだけですと、先へすすめません。
 どう動かすと、どうなるのか、という内的感覚や、鏡に映った自分の姿を自覚することが大切です。
 それが、心身一如の気づきや悟りにつながります。
 たとえば「痛い!」という感覚は、縮んだ筋肉が伸びる痛みか、内蔵や骨の危険信号か、これ以上は動かすな、という「からだの声」なのか、精神的な衝撃なのか等、感じ分けることが必要です。

「感じ分ける」というのは本当によい説明だなぁと。これをタイピングしているときに一緒にいたヨガ仲間のゆきんこに「ねえねえ」とこの部分を見せたら「そおなんだよっ!」と激しくうなずき、このあとこの件で話し込みました。いつも、よくこういう話をしています。

<135ページ よこのチャクラと、たてのクンダリーニ より>
古来からのチャクラ覚醒法は、「よこ」方向ではなく、下から上昇する「たて」方向のクンダリーニ・シャクティの荒々しい力で、蕾のように封印されたチャクラを突き破れば、チャクラは開花するという方法です。
 まったく、男性原理的な発想で、まるでチャクラは強姦される処女のような話です。チャクラの機能が狂ってしまう可能性のほうが多いのです。
 事実、アメリカの西海岸では、霊的覚醒を求めて、クンダリーニを一気にあげて、気がおかしくなる「ヨガ病」が増加し、医師には治せず、困っています。日本でも、ニュー・エイジ的セミナーでヨガの激しい呼吸法を取り入れ、クンダリーニがあがって、こぶが頭頂にできたり、気が逆上して、下へ気が下がらず、頭痛などで苦しんだりしている人も、沢山います。
 とぐろを巻いた蛇で象徴される、クンダリーニは、根本的な火のような生命力です。その炎のようなエネルギーを、一気に頭頂まで、呼吸法で上昇させるのは、頭まで熱くなって、気が逆上することで、危険なのです。
 私は、クンダリーニ・ヨガでからだをこわしましたから、皆さんには安全確実な方法しか、指導しません。

「まったく、男性原理的な発想で、まるでチャクラは強姦される処女のような話です」というところに共感。ここで何度か「ヨガを攻略しようとするスタンス」について書いたことがありますが、もちろんすべての男性がそうだとは思っていないし、素敵なヨギの殿方もたくさん存じ上げておりますが、でもやっぱり「とりくみかた」として、ひとつの傾向は感じます。「鍛えるの、楽しー!」というスタンスについては「かわいいなぁ」と思っていますので、そういうことではなく、太陽の光や水のように「ある」ものに対する傲慢な感じというか、覇権欲というか、そいういう不快感。

<260ページ からだと意識を分離して、自由に、ものやひとの中へ入る冥想 注釈より>
Q:空間に意識を抜いて、意識と肉体を分離すると、ふわぁーっといい気分になり、からだも宙に浮く気がします。これを続ければ、空中に浮けますか?
A:まったく、方向性が逆です。意識に、気と肉体とイメージが、くっついてしまって、分離できていません。気があがってフワフワしたり、気が逆上したまま、下へさがらないと危険です。精神に異常をきたします。気が高ぶり眠れない、早口、頭痛、躁状態などが初期症状です。
 丹田に気をおろし、気を沈めてください。上虚下実の逆で、上実下虚だと肉体が浮くのです。

こういうトホホな質問、多いんだろうなぁこの著者さん。本当にいいシャバアーサナのときって、重たいところは沈み、空気を含んだり柔らかいところはフワリとして、なんかシュークリームになったような感じだと思うんだけど。


あまりこういうことについて(とくに二つ目)、女性の言葉でハッキリ書いてくださっている方がこれまでいなかったのと、現在ではきちんとクンダリーニ・ヨーガを指導されている人がいることもわかっていたので、うちこはあまりこういう思いについては書かずおりました。この著者さんのこのスタンスにとても共感します。


という前提で、いつものように紹介、いきます。

<15ページ 胸の光…アートマン より>
『カタ・ウパニシャッド』では、たましい=アートマン=本当の自分は、五感を制御し、精神を集中させ、呼吸を整えるヨガで体感できるといいます。
 アートマンを自覚することが『ウパニシャッド』の中心テーマです。
 アートマンという言葉は、数百年間に、意味が変わっていきました。そこに、アートマンがどう実感されていったのか、類推できます。
 はじめは、気息(いき)を意味しましたが、生気、身体さらに自分自身の意味になり、哲学概念としては、自我(エゴ)、本当の自分、霊魂、たましい、そして、本体、万物に内在する霊妙な力を意味するようになりました。
 このイメージは同じく、たましいを意味するギリシャ語のプシュケーやプネウマと似ています。気息、風、空気、霊などから発展した、たましいのイメージは、ラテン語のアンマやヘブライ語のルーアハも同様です。
 要するに、古代では洋の東西を問わず、たましいとは、気息や風のような波動として感じていたようです。
 アートマンは「心臓内部の光である」と『ウパニシャッド』は述べています。

ウパニシャッド哲学のなかでアートマンのイメージが変容していた、というのは、うちこはちょっぴり混乱していたところだったので「変容していたのね」とわかっただけで収穫。このへんの言葉のなかは、うちこはチベットの「風(ルン)」が一番好きです。ウキッとするので(笑)。

<27ページ すき間だらけの「わ…た…し…」 より>
 たとえば、缶の中に閉じこめておいた煙が、ふたをあけることで、部屋中に広がり、はじめは、煙の固まりだったのが、しだいに薄く、空中に溶け込んでいくようなイメージです。
 つまり、合理精神の考える我である「私」が、だんだん心を開いていき、「わたし」からすき間だらけの「わ・た・し」になり、周囲と共鳴することで「わ……た……し……」になる。
 そのうちに、自意識は、弱まり、「わ………た………し………」と対象と一つに溶けて感じられる。
「忘我」の境地の「エクスタシー」という恍惚境は、脱魂状態ともいわれます。「わ……………」で、あとは霧の中のように溶けてしまう。気を失ったり、眠り込んでしまうことがあります。
 また「忘我」の境地のときは、意識の力が弱まるので、「トランス」状態になり、「自動的な活動・思考」が現れ、「神がかり」になったり、宇宙人からきるねまで、の「つきもの」に憑依存されたりします。

この説明はホントうまい。感動的にうまい。

<28ぺージ 我を忘れず、我を越える… より>
 ヨガでは、このようなプロセがわかっているので、ヘンなものに憑かれたりしないよいうに、意識は、せいぜい「わ……た……し……」を保つ、冥想状態を指導しています。
 自我がしっかりしていて、自己が確立され、いわば「濃く、強い」意識ならば宇宙大に意識を広げても、「わ……た……し……」を保て、梵我一如になれます。
 しかし、自意識が悪いものだと思い、自我をしっかりと育てていない人や、感情タイプで理性を育てることを嫌う人、まだ精神的に成人していない人などは、「淡く・弱い」意識なので、すぐに「忘我」の自他未分的なおぼろな世界に落ち込んでしまいます。「わ……………」と。
 こういうときは、とても危険だ、と私は思います。性新世界は、霧や、もやのような「夢の構造」に近いので、開閉自在ならしっかりした意識をもっていないと、高次の神と一体化したつもりで、魑魅魍魎といわれる低次元のエネルギー=霊気に同調し、とりつかれることもあるからです。
 要点は「ふんわりした、集中」という、開きながら、かつ絞っているという意識の加減を身につけることです。

うちこが最近知った「スカ」「スティラ」の意味とも似た話です。「集中しながら拡張するのだー!」ってまたバカボンのパパみたいな話なんですが、この説明も、うまいなぁ。


以下はふたつまとめます。

<61ページ 「たて」と「よこ」の薔薇十字 ── デカルト の注釈より>
デカルト R.Descartes
フランスの哲学者、数学者。近代哲学と解析幾何学創始者
 良識=ボン・サンスにより、自分の頭で、だれもが考えられる方法=メソッドを説いたのが『方法の本』すなわち『方法叙説』。
 一切を疑ったあとで、その「疑っている自分」だけは存在する、として、「考える我」を真理の基準とした。そこから精神と物質(=自然、肉体)の二つの実体を認める二元論の近代哲学が始まる。
 著書は、他に『情念論』『哲学原理』など。


<63ページ 妖術に、自然の光をあて追放した、デカルト より>
デカルトは、天使や悪魔が、現実に、気=プラーナの存在として実在していると感じられる時代に、生まれ育ったのです。
 しかし、邪気とか幽気といっても、感じる人と感じない人がいます。ヤギの姿をした悪魔を見る人や、天使に翼があるのを見る人もいれば、まるで見えない人もいます。
 となると、世界は一つのはずなのに、それぞれの人たちが、皆、別々の、ちがう世界をみたり、感じたりしていることになります。
 それでは話がくいちがうので、彼は一つに統合しようとしました。彼は理性を「自然の光」とよび、あいまいな世界を照らし出したのです。
(中略)あいまいな精霊たちは、いる場所を失いました。

数学者で、哲学者。サーンキヤ=数論。「自然の光」「あいまいな精霊たちが居場所を失った理論」にも興味がわきました。

<69ページ 覚めない夢の中の、傍観者たち より>
 現実を幻とみている人は、自分の身体が何をしているのかに、無自覚で、自分の行動を疑いません。他人にぶつかっても、知らん顔です。
 古典ヨガの「みているだけの傍観者」の視点は、程度の差はありますが、テレビをみる私たちや、コンピューターを扱う人たちにとって、日常的な視点です。一歩まちがえると、人間を生きた人間扱いせず、ただの物質とみて、心を動かされない。 ── それが解脱で悟りだとしたら、困ったものです。

忙しいとき、暇すぎるとき、両方にトラップがある気がする。バランスしないと。

<74ページ 最大のヨガ行者 ── シャカ より>
 その頃、インドには、正統的なバラモンの『ヴェーダ』の教えに対して出家して人里離れた場所で、冥想する非アーリア的な宗教家たちが沢山いいました。
 沙門(梵語シュラマナ sramana)といい、努め励む人、心を静める人の意味で、功労とか息、静志と訳されます。
 この沙門は、ツングース語の「シャーマン」の語源といわれています。
 シャーマン(shaman)とは、宗教的・呪術的行為をする霊能者です。
 のちに、仏教の出家者を、一般的に沙門とよぶようになったのは、開祖のシャカが、沙門だったからです。
 シャカは沙門として、解脱のためのさまざまな修行をしました。
『楞伽経』という禅の源流になった経典(AD五世紀)には、「シャカは、瑜伽行を行ずる人びとのうち、最大のヨギ(瑜伽師=ヨガ行者)である」と書いてあります。

シャーマンがぐっと身近に感じられるようになりました。このあいだ道場で「シャーマンって、イタコ〜のイ〜太郎♪ の仲間?」ってヨガ仲間のユッキーに聞いたら、「そもそもうちこがいま(首曲げて)歌ったイタコは、地名でね・・・ぜんぜん関係ない!」と、ゼロから教えてもらったばっかりなので・・・。

<78ページ 神も、魂も、実体はない ── と悟った、ブッダ 注釈より>
形而上学 英語metaphysics
 形而上とは、形のないもの。時空間に関係なく、それ自信で、自然とは別に存在している精神的なもの。
 逆に、形而下とは、形のあるもの。時空間のうちに形をそなえて現れるもの。
 形而上学とは、哲学の一部門で、物事の本質、存在の根本原理を、精神の面から研究する学問。
 現象を超越し、その背後にあるもの、神、霊魂などが主要問題で、純粋思惟と直感で研究する学問。
 一方、マルクス主義の哲学では、形而上学は非・弁証法的な思考方法をいう。すなわち、物事を固定不変なものとしてとらえ、他との関係や変化を無視して。それぞれを、変わらない個々別々のものとして、単独に考える思考方法。

形而上学って、インドから知る人とマルクスから知る人が話すときは、えらく食い違うねこれ。うちこは前者しか知らなかった。どっちかっつーとアウェーなんだろうな。

<80ページ 行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず より>
 会社自身が、景気の変化で、流動的に対応しないと、生き残れません。
 だから、そこに働く人も変化に合わせて、自分を変えられる柔軟な心身をもっていれば問題はありません。
 けれども、まじめな人、正直で誠実な人ほど、心が凝縮的で頑固であり、十年一日、変わらないことに価値があると信じています。変わること=変節すること=悪いことと思い、伸縮自在な心の変化ができません。
 心が変化しないということは、いいけると、心が成長もしないことです。
 そして、変化できない自分の心はみつめずに、変化していく世の中をうらみ、流れに取り残されて、(正直者は、馬鹿をみる……)とつぶやき、(神も仏もないのかー!)と、呪うのです。
 そう。あなたを救ってくれる神や仏はありませんよ。地獄も極楽もありませんよ。あなたが、自分自身をみつめ、自分と世の中のかかわり方を自分から変えていこうとしないかぎり、あなたの苦しみは消えませんよ。気づき、実践してください、とブッダは説いたのです。
 原始仏教は、自分で気づき、目覚め、自分で自分を救う「自力」宗です。
 自分を捨てて、超越者である仏や如来におすがりして、救ってもらうという「他力」宗は、大乗仏教から始まったのです。

すばらしい! サラリーマンのみなさん、ここメモですよー。メモメモ。

<99ページ 覚醒・悟り・気づき より>
 たとえば、落盤事故で生き埋めになり、数日をすごした人は、目隠しをして救出されます。闇の中で暮らしていた人にとって、太陽の光に照らされた普通の世界は、まばゆくて、苦痛で、すぐに光を見たら盲目になってしまうからです。徐々に慣らしていくことが必要です。
 同じように、今までとは別の次元の世界があることに気づいた人は、不安定な心理状態になります。以前の闇へ逆戻りもできず、光の世界へも適応できず宙ぶらりん状態で、困惑し、感情が乱れます。
 覚醒して光と出会うのは、うれしい体験ばかりではないのです。
 ところが、覚醒する=悟ると、上からドーンとまばゆい光が入ってきて、パッと人格が変わり、悩まなくなって、超人に生まれ変わる、と思っている人は、沢山います。
 まるで、外科手術で、凡人の自分の脳と超人の脳をすげ替えたようなイメージです。こういうイメージをもつ人は、脳=心=意識=精神=自分と思っています。近代的な「精神と肉体の二元論」の立場です。
 脳=私であり、脳以外のからだは、物質と思っています。それで、胸にある感情や、からだで感じる感覚は、悟りには無縁と思いこんでいます。

ちょっと沖っ子な香り。傲慢な思考に喝を入れてくださっております。ありがたいですね。

<102ページ たましいを密閉する、感情のしこり より>
現代社会では、理性を重んじ、感情を卑しいものとして切り捨てたり、押し込めたり、無視したりしがちです。
 たとえば、感情という言葉を、精神という言葉にすりかえて使い、いつしか自分でも、感情が原因だときづかなくなってしまいます。
 精神的に疲れた、精神が傷ついた、精神が落ち込む、精神的なストレス…などといいますが、精神は「客観的なみているだけの傍観者」であり、疲れたり、落ち込んだり、ストレスを感じません。感じるのは感情なのです。

「感情という言葉を、精神という言葉にすりかえて使う」という指摘は、本当にそうであるなぁと思います。「すりかえて利用」されてしまったのは、今の日本の多くの企業が職場環境の保障について、「環境」ではなく「保障」を軸に、本質以外のところへベクトルを向けて組み立てた制度が陥ったトラップ。と思います。

<121ぺージ マンダラは、たましいの全体像 ── C.G.ユング より>
 シュリー・ヤントラは、金剛界マンダラと胎臓界マンダラ、金胎両部の二つで一つのマンダラを、一つにまとめたマンダラでもあるのです。
 換言すると、シュリー・ヤントラを二つに分解して、よりわかりやすく、具象化すると、金剛界と胎臓界のマンダラになります。

そんでもってこんな、空海さんの密教に連携する記述もあったりするんですこの本。このブログとよく似てるわ。うちこは別れたやつのほうがしっくり入ってきて、好きです。空海さんありがとう。

<202ページ 呼吸法=プラーナ・ヤマの意味と価値 ── 奥義の要点 注釈より>
・質問(Q)と答え(A)
Q:ヨガの呼吸法と中国の「気功」とは同じですか?
A:大きな意味では、同じです。気功とは1950年代に、唯物論を背景にした革命後の中国で、できた新しい言葉です。気功は、古くからの座禅の調息法や道教の仙道・導引術などを一つにまとめた心身の鍛練法で、武術気功と医療気功があります。他人を気で治療する外気功と、自分の保健のための内気功があります。この内気功は、ヨガの呼吸法とほとんど同じです。
とはいえ中国は唯物論の国なので、気は物理的なエネルギーであると、定義しています。ヨガのように気=プラーナを、精神的・心理的なエネルギーでもある、とはいわないようです。

「他人を気で治療する外気功と、自分の保健のための内気功」があるというのは、知らなかった。


このブログの「本の紹介」をけっこうマメに読まれている方には、とても面白く読める本だと思います。うちこはこの著者さんの脳みその半分くらいしか使えていないのですが、そこをリアルなサラリーマンの現場体験で補っているような感じで、根本的に掘り下げる糸のたどり方がかぶっているような、そんな親近感を感じました。
この著者さんの本を読んでみて、うちこももう少し「うちこの内のヨガ」について、自分の言葉で書いてみようかなぁという気持ちになりました。


★内藤景代さんの他の本への感想ログは「本棚」に置いてあります。


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