うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

生活を正す ヨガ叢書〈第2巻〉沖正弘 著

ヨガ叢書〈第2巻〉生活を正す (1970年)
第1巻第3巻同様、これも初版が1970年。1〜3まで読んでみましたが、後になるほど新しいことが書いてあるかというと、そうでもない感じ。
第2巻の読みどころは沖先生の言葉で解説される「ヨーガ・スートラのヤマ(禁制)の教え」と、いつもながらカルマヨガの説明が良いです。特に「奉仕してよい人に奉仕せよ」というのが、いろいろ考えさせられる。仕事に向かう電車とバスの中で沖先生の本を読むと、なんだかヨガをしに行っているような気分になる。


<9ページ アカルマの世界 より>
何らかの功徳を得たいがためになす善事は、因果律に支配された、業の束縛をのこす生活であります。結果への要求にひっかかる時、われわれは、因果律の支配をうけなければならないのであります。アカルマの生活は、因果を知って因果をはなれた、束縛をつくらず、のこさない生活であります。

「業の束縛をのこす」という表現が、なんだか心に残りました。言い換えると「業の束縛をのこさない生き方」。もったいつけるような場面を見たときに、とっても非ヨガな感じがする気持ち悪さを表現してくれていて、なんかスッキリ。


<16ページ 生命の声に従って生きよ ─アカルマ(無業への道)─ より>
真智(ハンニャ)について
 教えられなくても知っている智恵が真実の智恵であります。でありますから私達はこの真智に従った生き方をしてのみ真の健康と真の幸福を与えられるのであります。
 動物は栄養学を知っている訳ではありません。だが彼等は、毒物と自分への適物をしっております。彼等は薬物学は知らなくても、病気の時の薬草を知っております。ケンカをする時には延髄か、動脈をかみます。蜂は相手の運動神経を刺します。

限定感を強調されたり秘められたような扱いをされると「本来必要でなくても興味を寄せる」のもまた、人間独特の不幸かも。


<32ページ ゆとりある心を養おう より>
物を学ぶ場合には両方(共通的なもの・個性的なもの)の別においても、四つの立場がありますから、全部を統合統一する必要があります。これは分析的と総合的、動的と静的の立場です。

まるで仕事の極意のようです。


<53ページ ヨガの解説とインドヨガ道場の修行生活 より>
ヨガでいう神とは
 ヨガでも神を説きます。しかしヨガで説く神とは、固定化したり、形式化されたものではありません。「生命の働きそのもの」を、神の働きと称しているのであります、宇宙の働きは調和性維持の目的から、絶えず変化をくりかえしています。だから固定化した存在物はあり得ないのです。
(中略)
慣れない生活の工夫、すなわち常時適応性を意識的に高め広めてゆこことがヨガ的生活法えあります。この宇宙は、適応性のある物だけにその存在を許しているのであります。

心も身体も柔らかく適応するのがヨガ。その働きが神。「身体が硬いのですが……」といわれると「自分で決めるんか〜い!」となる。


<55ページ ヨガの解説とインドヨガ道場の修行生活 より>
「チャクラ」と「クンダリーニ」
あなたは自己の運命の創り主が自己自身であるということに、お気付きになられたことでしょう。この適応性のことを業(カルマ)といっております。この適応性の中には、先天的のもの(無条件反射、習性、遺伝)と、後天的のもの(条件反射、習慣)とがあります。自分とは、この二者を併せたものであります。この適応性を司っているものが、神経(クンダリーニ)と腺(チャクラ)であります。腺が主として先天性の適応性を受けもっており、神経が主として後天性の適応性を受けもっております。大脳は後天的のものを、間脳は先天的なものを受けもっております。

神経と腺ですよ。この、過剰にスピリチュアル・ムードではない解説が、昭和古典のよいところ。


<74ページ ヨガの解説とインドヨガ道場の修行生活 より>
無言の中に学びとるのがヨガ
このようにしてヨガは「自分以外に救い主がなく、自分が気付き、自分が自分に責任を持って自分を整え、鍛える努力をするところ以外に解脱の道はないのだ」という真実を、無言のうちに気づかせてくれるのです。

「やればできる」というと聞こえはいいけれど、「やらないとできない」ということを教えてくれる。


<75ページ ヨガの解説とインドヨガ道場の修行生活 より>
自分で学びとれ
私には次のような体験があります。ある時師匠に質問しました。
「バランスをとるにはどうしたらよいのでしょうか」と、
「バランスをとればよいのさ」
 こういう調子の答えられ方でありました。

まあ、そうですからねぇ。「自転車と一緒ネ!」と言ってくれるだけでも、うちの師匠は優しいな(笑)。


<80ページ ヨガの解説とインドヨガ道場の修行生活 より>
先ず心身浄化から
カパラバティ……急速なる呼吸法でバストリカをくりかえします。肺の浄化及び自動運動の中枢である延髄刺激を目的としています。これには二つのリズム呼吸法があります。
 吸吸吸急に吐く……引きしめの呼吸法
 吐吐吐急に吸う……くつろぎの呼吸法

このくつろぎの呼吸法は、便利。つられてお腹もいっぱいになるので、ダイエットにもおすすめ。



以下は、沖先生が訳すヨーガ・スートラのヤマ(禁制)の教えのような内容。「とにかく人間社会でしてはならないことは古今東西、誰が見ても一致している」という意向のうえで、日本人向けの解説文として非常にわかりやすい記述と思いましたので、引用紹介します。

<87ページ ヨガの解説とインドヨガ道場の修行生活 「してはいけないこと」より>
次のようなことも解脱の目的のために避けることを勧めています。

1.遊芸にふけらないこと。それらはそのことの囚になりやすいからです。
2.美食、美衣したり、反対に垢衣、粗食し過ぎないこと。何事にも極端はいけないのであります。
3.交際しすぎないこと。深入りすると、とらわれ、ひっかかってしまって、純正無雑の心境を維持できにくくなるからです。無関心もいけませんが、余分の関心をもちすぎることもいけないことです。
4.しゃべり過ぎないこと。とにかく口業を造らないことです。多くの人は自分の口業で苦しめられているのですから、発言に責任をもつ心掛けが必要であります。
5.多読し過ぎないこと。それは頭脳のみが発達して、実行を怠りやすいからであります。
6.慢心するな。それは常に自己の愚、不完全に気づいておらないと、学ぶ心を失うからであります。
7.逃げるな、拒むな。それは与えられた縁に対しては、何事も積極的にうけとって活用し、自他共に生きるためであります。
8.静な所を選んで平静な心身を保つ工夫をせよ。それは平静な時にのみ(ハンニャ)が湧き、真の力が自然的に出てくるからであります。
9.清くあれ。それは環境の刺激がその人をつくり上げてゆくからです。常に良い環境を選ぶことが必要であります。
10.端整な姿勢を保て。それは態度の如何で聖人にも凡人にもなり得るからであります。
11.調息せよ。それは息は心理、生理、解剖に影響するからであります。
12.守護神に感謝せよ。それは、自分の天分才能は祖先のおかげだからであります。

とにかく、日常生活のあり方がその人をつくりあげてゆくのであります。ヨガの先達が何世紀も研究した結果、解脱の目的の邪魔になるもの一切を戒律として教えて下さっているのでありまして、実行してみられましたら、一つ一つを、なるほどとうなづくことができます。

この本のタイトル「生活を正す」は、ここにあり、という感じですね。


<117ページ 食事について より>
(インドの道場での師匠のことばと、沖先生)
 お前は、肺病にふさわしいところの人となりをもっているのだ。お前は、慢性的に肺病を維持するところの生活をしているのだ。胃腸一つこわすにしても、胃腸をこわす様な努力を重ねなければこわれない。まず食って食って又食って、という努力である。小食していては駄目である。体の要求を無視して、旨いものだけがうまいのだといって、栄養の偏った食べ方をしなければならない。
(中略)病原菌は、培養しようと思ったら大変なものだ。一寸した変化があっても駄目で、一定の温度が必要だし、エサも必要だ。結核菌を体内に培養しようと思ったら、一定の温度と湿度とエサというものを、いつも自分のなかにもっていなければならない。
 私はそのように考えたことがなかったのです。

中村天風氏とカリアッパ師のエピソードとよく似ています。


<265ページ ヨーロッパ雑感 西欧の生活 より>
社会観念について
僕の所に訪ねて来る若い男女の何人もに尋ねてみた「何故結婚するのかね」と。答は共通だ。男は「性のため、便利のため」女は「経済のため」このことは世界共通のことであるらしい。

最近はどうなんだろう。男は「独身だとワケアリっぽく見られるから」ではないかと思ったりします。


<269ページ 同上 より>
僕の受講生達
私は東洋に生まれたことを有難く思う。それは東洋には「全てのものから道を発見する」という考え方があり、生きる哲学がそこから生れ出ているからである。

わたしも!


<313ページ 正しい生活を生みだす心 「幸福の在りかは」より>
正しさというものは自然の中にあるものです。身体の自然を高めるということが、身体の健康法であります。心の健康な状態を悟っているというのです。生きている心の状態のことです。腐った心ではしようがありません。心が腐っている時には、心がとどまっている時には、心が間違っているときには、宇宙は私達に悩みというものを与えて下さいます。そうして脱皮運動をおこさせて下さるのです。

健康のためにわざわざ取り寄せないと手に入らないようなものを食べるって、おかしいのよね…。


<318ページ カルマヨガ(奉仕道)について 「功徳のもらいすぎが苦因である」より>
 私たちは日々の生活において、色々なものを見たり聞いたり、読んだりしております。ですから意識的にコントロールしないと何でもかんでもが無制限に頭の中に入ってしまうことになります。何でもかんでもを無分別に食べれば身体の血が濁るように、何でもかんでもをでたらめに頭の中に入れてしまうと頭が混乱し心の血がにごってしまいます。ですから心の血を濁さないためには、意識的にできるだけ正しいものを食べるということ、即ち真理的なものを読み、聞き語るということとそれを出しきることを努力しなくてはなりません。

ニュースを見ていると「ああこれは、こう思ってくださいというあおりだな」といちいち思う。その軽率な意図の数と連鎖して増えていく量にうんざりしてしまいます。選挙報道にまるで戦争の勝ち負けのような表現が使われるのも、不思議な感じがする。「カリスマの存在」というのは、こういう小さな余剰エネルギーの培養を抑止する働きがあるのかもしれない、なんてことを思いました。


<322ページ カルマヨガ(奉仕道)について 「奉仕してよい人に奉仕せよ」より>
めちゃくちゃに、捧げるんだ、捧げるんだと言って、自分を与えることは正しい奉仕ではありません。自己満足の自己本位です。今社会で言われている奉仕という言葉の中には、誤ったものが誠に多いようです。ヨガでは奉仕をうける資格のない人すなわち救くわれる資格のない人は先づその資格ができるように導いて後に奉仕をいたします。
 正しい奉仕を行じさせていただく為には、正しい愛についての理解をもっていなくてはなりません。正しい愛を行じうるもののみが、正しく奉仕を行じることができるのです。

ここはすごく心に残りました。ヨガを行じている人が、相手の状況を鑑みずに「奉仕せよ」とプレッシャーをかけるような行為のがあると、びっくりする。奉仕する場面、奉仕を強いられる場面いずれにしても、「本当に自然界から求められている奉仕か」を見抜く眼識が必要と思います。


<333ページ 正しい治り方と救われる道 より>
(この章は、当時武蔵野音楽大学生であった小笠原久子さんの感想文です)
 沖先生はおっしゃいました。
「功徳を求めたり、功徳を説いたりするものは宗教ではない。しかし生活全部に功徳が自然に現われないのもまた宗教ではない」と。

「生活全部に功徳が自然に現われないのもまた宗教ではない」というのは名言ですなぁ。「自然に」というところが。



沖先生の本は何冊か読んでいるので、同じような内容が多いのだけれど、やっぱりなんだか説明に出てくる表現がいいんだなぁ。リアルで。今回も面白く読みました。

生活を正す (ヨガ叢書)

生活を正す (ヨガ叢書)


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