うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

中国の静坐、日本の静坐(「静坐のすすめ」より)

静坐年表
静坐のすすめ」からの引き出し紹介、第五弾です。これが最終回です。今回は中国の静坐(気功療法)と日本の静坐についての記述箇所から、メモを紹介します。うちこは密教、タオイズム、西遊記以外の中国方面にはいまひとつ明るくないのですが、やはり出てくる単語が「丹」ですから、読んでいてもなんだか自分の中でヨガ的な解釈に変換しやすいです。不思議ですね。
今回の最後の紹介では、メイン著者さんである佐藤幸治氏による記述の部分が多くなります。禅や真言宗の修行、真向法、内観法に関連する内容もあり、さまざまな人の教えの関連性についての記述は、1900年代初期の日本のヨガ的な修練の歴史を物語るものとして、とても貴重な内容だと思います。

中国の静坐、日本の静坐の順に、メモを残したいと思った箇所を紹介します。

<170ページ 中国の静坐(気功療法)簗瀬成一 より>
 総じて気功療法は統一完整された有機体本身に内在する生理性能を利用し、精神集中と呼吸調整という方法をとり、一つの人為的「保護条件」を創り出し、これらを結合せしめて保健と治療に用いるのである。

精神集中と呼吸調整で「保護条件」を創り出す、というアプローチは新鮮。そして出てくる言葉は結合。ヨガですねぇ。同じ章に、シャバーサナの状態で息を吸いながら手首と足首をおもいっきりフレックスに。吐きながら解除する、というのをゆっくり数息観とともにおこなうものなどが紹介されています。

<182ページ 中国の静坐 ─補遺─ 佐藤幸治 より>
 中国における養生法としては道教の流れがむしろ本流といってよく、「練丹修養法」と称せられるものなど、今日から見ても興味深いものがある。伊藤光遠氏の解説したものがあるが、"丹"というのはいわば性的エネルギー(精)が蓄積され、安定した心身エネルギーの根源となったものである。『精は身を養い、心を明らかにする至宝でる。』『精のすでに敗れたもの(性的エネルギーの衰えた人)は、第一着手に精をもって補う法がある。これを小周天築基の工という』と説き、次のように説明している。まず静坐して心を虚無の状態に保ち、呼吸を沈細にし、精の生ずるのを待ち、精が生じたならば、意識的な呼吸を用いて、外に走ろうとする精を収め、それが定まってくれば、また静かな呼吸でこれを保養する。これを反復しながら精を養い、さらに周天の法をもってこの薬を練る。小周天の法といわれるものは丹田より気を脊髄の内側に沿い(督脈という)、頭部の内面、泥丸と称する部位に向かって上昇させ、さらに泥丸より胸腹部の内側に沿い(任務脈という)丹田に下降させ、この任・督を通じて神気をめぐらすものである。

それってクンダリーニ・ヨーガ……、そんな想起された方も多いのではないかと思います。練丹修養法は後で調べると、字列としては「煉丹修養法」のほうが多いです。

<196ページ 日本の心学その他における静坐 佐藤幸治 より>
(幕末の儒者佐藤一斎(1772〜1859年)、神道家・平田篤胤(1776〜1843年)、名医・平野元良らの説いた内容のダイジェストの後)
 明治、大正の静坐説の主なるものは前に挙げたが、加藤咄堂の「冥想論」なども、釈宗演の「静坐のすすめ」初版よりはおそいとしても、岡田式、藤田式などよりも先に公にされたもので(明治三十八年)、釈尊、イエスマホメットなどの瞑想から、瞑想と降神術や、瞑想と生理にまでわたって東西の瞑想を論じ、広汎な視野を展開したものとして注目すべき文献である。

加藤咄堂師の時代は「鈴木大拙師・釈宗演師と新渡戸稲造さんのあいだ」に位置します。(上の写真のとおり)この「冥想論」はデジタルライブラリーで読めるのですが、日本語が昔のものすぎて、おいそれとはトライできませんでした。(右上の「提供元詳細画面」→「本文をみる」から読むことができます)

<214ページ 仏教における静坐 佐藤幸治 より>
 禅と静坐とを比較すると、禅を学ぼうとしてかえって健康を害し、静坐によって健康を回復した人も少なくない。(中略)白隠禅師なども猛烈な修行を続けて、幾度か痛快な見性を重ねたけれども、結局過労のために健康を害し、重い神経衰弱と肺患にかかり、医師にも見放されるに至り、ついに白幽仙人の内観法に救われたのである。見性や悟りというものを一面的に強調すると、このような健康の破壊も起こりやすいのであって、白隠も後には参禅と内観の併修をすすめることになるのである。
また禅では、ややもすれば初心者に対する指導が親切を欠きやすく、その点、福井県小浜の発心寺におられた故原田祖岳老師も「正しい坐禅の心得」で、このことに注意して、懇切な指導をされると共に、朝、坐禅の前には必らず体操を行なわせ、老師の高弟原田湛玄師などは「真向法」を取り入れていることなども、教えるところが多いと思う。

この流れに便乗しつつ端的に言うと、「だから坐る前には身体動かしとけーって、インド人が言うわけですよ」というのがヨガです。邪念の元となる余剰エネルギーの燃焼という目的もありますが。うちこも週末に寺へ行ったりしますが、4キロくらいそこまで歩いていったり、スーリヤ・ナマスカーラ(太陽礼拝)をこなしておいたり、なにかしら身体は動かしておきます。坂の上にある寺などは、ほどよく股関節も動いてよいですよ。

<216ページ 仏教における静坐 佐藤幸治 より>
 浄土真宗の方は念仏三昧を説かないが、真宗系の静坐・黙想的なものとして注目すべきものに大和郡山の吉本伊信氏が発展された「内観法」がある。これは希望者を一週間、隔離して(通常は座敷の一隅に屏風で囲いをする)独坐(姿勢はやかましくいわないが、横臥はいけない)させ、自分の母親をはじめ、家族、先生、友人などに対する幼時からの自分の行動を一々深く掘り下げさせ、反省させるのである。これは喧騒の日常生活において忘れ去り、喪失していた本来の自己を回復させる道として、最初にあげた新渡戸博士の説くところなどとも相通じ、中村藤樹の"至良知"などにも共通するものがあるが、過去の生涯の回顧分析という点では欧米の精神分析とも比較検討すべき面をもっている。

ヴィパッサナーでもこのような方法があると聞いたことがあるような気がしますが、「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑かけたこと」の三つの観点を「内観三項目」とし、自分を客観視するという「内観法」、きっついなぁ。(参考:「吉本伊信 Wikipedia」)
うちこはいくつになっても高校のときにソフトボールの守備でエラーをしたときのことや、球種の選択を間違えて打たれたときの記憶が急によみがえってきて「あ”あ”あ”あ”あ”」という思いに襲われてみたり、とにかくそういうことが多い。「やっちゃった」と思ったことがすごく鮮明に記憶されているんです。これは「内観癖」とでもいいうべきものなのだろうか。そう思うと、つらいんだけど、悪いことではないような気がしてきました。


ここ2年くらいで、瞑想・内観的ないろいろなことが、OLのランチでも語られるくらい「降りてきているなぁ」と感じる昨今ですが、なにか特別な雰囲気をもたらされなければできないものではなく、きっと自分を見つめる瞬間はいろいろなところにある。流行のファッションやメイクを取り入れるようなアプローチよりも、まずはそっと坐ってみたらいいですね。それで、ああ、なんか足が痛いわ。ってとこからはじめたらいい。「あーらあたしったら、坐ってみたら足が痛いんだわ!」ってところから。「あったかい便座って、なんてきもちいいんでしょう」という"座"との違いから見つめていったらいいですね。その気持ち悪さから紐解いていくと、きっと丹田に出会えます。

▼静坐のすすめ。これまでの4発
静坐のすすめ 佐保田鶴治/佐藤幸治 編・著
「修養」の第十四章「黙思」 新渡戸稲造 著(「静坐のすすめ」より)
西洋と東洋の祈りの考察(「静坐のすすめ」より)
岡田式静坐法、藤田式息心調和法、二木式腹式呼吸法(「静坐のすすめ」より)

静坐のすすめ
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