いつまでも継承され続けるコミュニケーションの型について、いま20代の人はどんなふうに感じてきたのか。それが感覚的に伝わりやすい小説でした。
お笑い芸人に憧れた高校生がテレビ売れていく過程とその周辺の人の話で、男の人たちがワイワイ評価し合うあの独特の躁状態と暴力性が内側から描かれています。
この小説を読みながらわたしがふと思い出したのは、2年前にはじめて読んだ向田邦子さんの『父の詫び状』です。
1978年に発表された作品で、当時ものすごくヒットし、多くの人が "これはうちだけではなかったのか" という事実をネットのない時代に共有することになった。そういう作品だったそうです。
いまはさまざまな我慢がネットを介して共有される時代になって、向田邦子さんの時代とは違うのだけど、この小説『おもろい以外いらんねん』を読みながら受け取る感覚は『父の詫び状』とよく似ています。
『おもろい以外いらんねん』に登場する主要人物は、仲間に詫びることを迫られて詫びるのですが、そこには『父の詫び状』よりもさらに複雑化した心の護りかたがあって、たぶんこれが、いまどきの詫びかた。
この小説のすごいところは、あの仕組みを生み出す合理性や目的が、”発散” であることを突き止めているところじゃないかと思います。
でも俺はだれになにをぶつけたいのかわからなかった。怒りに変わっていこうとする憂鬱だけがあった。俺のからだに閉じ込めておくのはもう疲れた。発散できる相手に発散したかった。
発散できさえすれば、お笑い番組であろうがネット上での言葉のやり取りであろうが、実はどっちでもいい。このどっちでもよさが、状況を定番化させている。
雑な感情の発散の場として「お笑い」がテンプレート化したのはいつからだろう。
あれは自分の毒が自分に回るのを回避するためのシステム。それは集団でヨガをするのと変わらないのかもしれない。そう思うと興味深く見えてくる。
この形式の笑いの源泉について、それをうまく説明していると感じる一文がありました。
まっとうでいようとする当たり前のことが、俺は理由をこじつけないとできないのだった。
理由をこじつけないとできない人のために、ノリで押せる狂信的な躁状態の仕組みにニーズが生まれる。
この小説は、わたしがお笑いの単独ライブにしか行かない理由がギュッと濃縮されたような書かれっぷりでした。
「からみ」とか「いじり」って、学校や会社にいるのと変わらないから、見ていて疲れるんですよね。わたしは異世界に連れて行ってくれるお笑いが好きです。