今年に入ってから、「見栄とプライド」について考えることが何度かありました。
父親に関する事務処理をしながら、こんなことで見栄を張って何がしたかったのだろう・・・と新たに知ることがあって、ひとりの友人にいろんな話を聞いてもらっていました。
彼女はわたしよりもずいぶん早く父親を失っていて、若い頃に一家の中心に立ってあれこれ対応をしたパワフルな経験をしています。
「あとで知ることになる、こういう情報操作みたいなのってなんなんだろう。だから往生際って言うんだろうけど」と話したことがあって、見栄とプライドの話になりました。
彼女は自分の日常においてなのか、過去のなにかを想定していたのかはわからないけれど、頭の中に具体的な対象をイメージしながら「見栄はダメよ。プライドはいいけど」と言っていました。
* * *
身辺整理が収束した頃に、彼女とはまた別の、学生時代からの友人と話をしました。
その人は大掛かりな実家じまいを10年以上前に経験していて、「まだ体力がある頃だったからできたけど」と言っていました。
そのときに「見栄とプライド」の話をしたら、「あのね、見栄もだいじなんだよ」と話してくれました。それを学ぶ教材として、昔のドラマを教えてくれました。
『春が來た』 演出:久世光彦/原作:向田邦子
原作は向田邦子さんの遺作となった小説で、ドラマよりもエピソードの少ない短編でした。
映像化されることでそのテーマが深く掘り下げられ、「見栄」が視覚的に入ってきます。
話し方・トーン・セリフまで全て覚えておきたいと思うほど、すごい内容でした。
おおっぴらに書く解説文章であれば「家族の再生の物語」ということになるけれど、実際は「セルフネグレクトが連鎖し常態化した家庭が蘇生する物語」で、これをすすめてくれた友人の意図が伝わってきました。
そこでは人を救い出す「薬としての見栄」が描かれていて、それを「春」と言い、見栄を張らせてくれる存在は「春の神様」です。
冒頭からドリフのコントのような軽さで連れて行かれ、あっという間の90分。
この時代に作られた本気のドラマって、大人たちが真剣に人間の性分を掘り下げながら、それを重く見せないようにユーモアで包んでいたんだなと、今になって気がつきました。これはやりすぎというラインを超えないように、絶妙に計算されています。
子どもの頃は意味がわかっていなかったけれど、当時の大人の女性たちは「あのドラマ観た?」からはじまって、同世代の友人とどんな会話をしていたのだろう。
いまは「見栄」ではなく、「盛る」と言いますね。
「ちょっと盛りすぎかしら?」「いいよ、盛っていきなよ / だいぶ盛ったねぇw」と明るく言い合えるって、いいですよね。春の気配を察知できてるってことだもの。
見栄を張りたい自分を知るって、いいものですね。奥深いわ。
▼Amazonにありました。とんでもない豪華キャストでした。
▼DVD化されています(ということは、DVDレンタルにもあるでしょう)