もうすぐ桜の季節。人間社会では、組織変更や進級進学のシーズンでもありますね。
わたしはかねがね、なんでこの時期にシャッフルするのだろう。自然の芽吹きと春の嵐で内奥が忙しいのにと思うこともあれば、新しい季節を自然に感じられる時にそれを行う合理性にも納得するところがあって、そんなこんなの毎年の春です。
変化の風を受けて頭の中で風車が回っている時間が長くなっちゃって、発言や行動を平常通りに保つのが難しいって人もいるでしょう。
そうなると自分の心を守るためなのかわかりませんが、急におかしなモードになります。
そして脳内で作り出した忙しさの上に効率重視の思考をさらに取り入れて、それが日常に侵食してくると、大量生産のものを効率的に消費しながらそれを急に取り戻すかのように神聖な場所へ出かけて行ったりして、その微細さと普段の粗雑さのギャップでさらに自分自身の不合理性の渦にハマる。
こんなふうに頭と心がぐちゃぐちゃになって、「生産性がないわたし」「統一性がないわたし」というジャッジを自分自身に向け続ける。そういう混乱がある。
人間の脳も自然物なので、草花と同じように芽吹いたりふわふわします。
道徳や倫理はそれに対する人間の発明で、思想や哲学や宗教も同様。
だからヨガは哲学だよ、生きる技術だよと言われたりするんですよね。
全体として、そんなふうにヨガと身体と社会と世界を見ています。
* * *
先日、満月ヨガに参加された方から、いまもけっこう練習されているのですかと聞かれました。ええ、わりとやってます、とお答えしました。
アシュタンガ・ヴィンヤサ・ヨーガのハーフプライマリ+αくらいのが週2回か3回、ヴィンヤサフローヨガを週1回か2回、強度の高いハタヨガを週1回。
このほかに、早朝の太極拳が週2回か3回。平日は冒頭の20分だけ。これは屋外なので天候に左右されます。
なかでも土曜日は運動中心の日にしていて、この日だけは太極拳も1時間参加します。そのあと午前と午後にヨガをやる週が多く、ヨガだけで見ると、ならすとだいたい週に2日か1日、お休みしています。
移動や遠いオフィスへの出勤がある週は、もちろんこのルーティーンから外れます。
指導者側としてヨガの時間を設定しているのは、週に1回か2回です。(このブログの上部や末尾にリンクを置いています)
こうやって書くとどこにそんな時間があるのだと思われそうですが、親が施設に入ってくれた10年近く前から一人暮らしになって、その前よりも時間ができました。
体力が加齢とともに少しずつ減っていくなかでも運動の時間を優先しているので、ライフスタイルはそんなに丁寧じゃありません。
家にテレビを置かずネットのサブスクにも入っていないので、近い世代の一人暮らしの人と比較すると、わたしは運動と読書と、読んだ本を映画化されたものを観るくらいしか趣味らしいものがありません。
カレーの食べ歩きは趣味ではなく、なるべくいろんな人と話すようにするためのフックです。なるべくいろんな人と話すというのはパンデミックの頃から心がけてきたことで、心の健康のためにヨガと同じくらい大切に思っています。
ヨガはたまーにひとりで家でやることもありますが、現在は都内で2つ、身体を動かせる場所で会員証を作り、インストラクターさんのガイドで身体を動かしています。どちらもやや大量生産系ですが、そんなにおかしなキャッシュフローを土台にしていないので、そこで人間関係が少し深くなっても社会生活にまでは侵食してきません。
わたしはものすごく大量生産系の練習の場だけだと心が虚しくなり、あまりにスピリチュアルな修行モードで「ところでこの人たちどうやって生活してるの? 高等遊民なの?」という問いが浮かぶ場所では、かえって精神的に足元が安定しない感覚を自分自身の中から受け取ることになります。
そういう自分の性向がわかってきたので、近頃はあまりワークショップへ出かけなくなりました。
ポジティブに社会の歯車の一つでありたい。
そうあることで精神が安定して、いろんなことを楽しめるタイプです。
その上で、すり減らない工夫としてヨガがある。わたしの場合はそういう順番です。
* * *
わたしの現在の日々の葛藤は卑近なことばかりなので、卑近なことばかりだからこそ、急に壮大なことは考えません。わたしがここ数年生活してきた社会に目を向けながら暮らしていくのに適当なヨガをしています。
(この ”適当” は高田純次的なテキトーという意味じゃあ、ござあせんよ!)
たぶんこの変化は重いものから精神的に解放されたことが関係していると思うのですが、その変化が理解できるまでには、さらに10年かかるだろうと経験から推測しています。
今日は自分の生活と練習について書きました。
わたしが会員証を作って通っている場所はいずれも、オーナーと本の貸し借りをしたり食事をしたり、お互いの人生経験を共有したりする間柄です。
「インストラクターの資格を持っているでしょう?」と訊かれて答えもしたけれど、それはそれ。自分の日常の練習のために通う生活リズムも伝えています。
40歳を過ぎるとお互い言動を見ればだいたいわかるもので、何度も繰り返し会ったあとで、そこからやっと少しずつ関係構築がはじまる。相手の社会の中での顔をまず尊重します。
* * *
ここ十数年で社会が大きく変わり、ひとりの人がひとつの顔で人生を送っているわけではないという前提が当たり前になって、そういう粋な関係が静かに編まれていく世界を、わたしはとても新しい、すばらしい世界と思っています。
ヨガの人間関係に限らず、ほかの出会いもそうです。
そういう関係は、ペラペラと発信公開されたりしないもの。
こういうことがわかってくるのもまた、人生経験です。
人間を体験するために生まれてきて、関係を体験するために行動して、知性的な経験につながっていく。
今日もその真っ只中にいるなと思いながら、春の光を浴びています。

丁寧な暮らしは、まだまだ勉強中。
今年初めてミモザの花束を買って、部屋の3箇所に飾りました。
ちょっとこぼれてしまった花がもったいなくて、醤油差しに入れて窓辺に置きました。
手前のは、森で拾ってきた松ぼっくりです。
まだ花瓶は一つも持っていません。醤油やコスメを買うときにおしゃれな瓶のものを買うようにして、それが一つずつ花瓶になっています。
ふわふわの状態で買ったミモザは、10日ほど経ってだいぶ粒が小さくなりました。
色が凝縮されて辛子色になり、葉っぱがパラパラ落ちずにキュッとなって、最初の数日は毎日掃き掃除をしなければいけないものと思っていたのに、どんどん散らからなくなっています。
ミモザって、こんなに知性的な老い方をするんですね。知りませんでした。
水に差されたまま、かっこいいドライフラワーになっています。
人生のお手本のようです。