わたしはこの「つながってる」に気持ちを合わせられないな・・・。
と、ヨガをはじめた頃に、フレンドリーなワークショップの独特な雰囲気に怯んでしまったことが何度かありました。
それから何年もヨガを続けて40代になった頃には、そう思う気持ちを分解できたのか、そこに適合する方法を構築したのか、それをもう経験していないのか経験しても忘れてしまったのか。
そういうことが気にならなくなりました。
ヨガに慣れたというよりも、人間社会に慣れたのだと思います。
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ヨガっていいよね。呼吸と連動するから頭もスッキリするし、体幹も鍛えられるし。
だけど哲学的な話はちょっとな。宗教っぽいのもヒいてしまう。怪しいとかそういうのではなくて。まあそこはほら、今は “多様性” の時代だし。そういう意味ではなくて、なんか職場や取引先の人から聞く仕事論や成功伝みたいなのと、なんか似て聞こえる瞬間があるんだよなぁ・・・。
── と心の中では思っているのだけど、漠然とポジティブな反応を求めるような視線を向けられて、わたしはインストラクターの人にこんなことを言ってみる。
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「ヨガがお好きなんですね」
すると、こんな答えが返ってくる。
「どうなんでしょう。よりきちんと生きるのが、好きなのかもしれないです。呼吸をするとか、リラックスするとか、生きるのに必須のことって、好き嫌いの外にあるように思うから」
主人公はこう思う。
嫌うのも許されないのかよ。
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これは小説の26ページで展開される会話のヨガ版アレンジ。
小説では「ヨガがお好きなんですね」ではなく、「食べるのがお好きなんですね」という会話が展開される。
その質問を投げかける20代後半の主人公・二谷さんの気持ちが、わたしはわかる。
わかる、わかるんだ。
既視感がある。
と思う。
「おいしいごはんを食べる」と「おいしくごはんを食べる」は違うと思うんだ、と二谷さんはたぶん言いたいのだけど、それができないだけなんじゃないか。
二谷さんは、後者は否定していないようにわたしには見える。
なのに前者に協調できないといけないかのような設定が苦しくて、食べること全体を嫌ってしまう。
わかる。
これは「ヨガでスッキリする」に該当する。「本格的なヨガ」でなくてもいいから、スッキリしたいことがある。そのくらい、いまの人間社会生活は複雑すぎる。
二谷さんはがんばっているし、がんばってきたし、ちゃんとずっと、その都度悩んでる。
この小説は、さりげなく核心をついてくる。
ドリフのコントのもしもシリーズのように。
もしも「よりきちんと生きるのが、好き」と言っている人が、ツッコミどころ満載の人だったら?
わたしはこの場面に、二谷さん、それな! と共感で心が動きました。
ティッシュペーパーを手のひらに広げて、ビニール手袋を付けた芦川さんがその上につまんだクッキーを載せていく。炊き出し、とそんな言葉が頭に浮かぶ。全然違うのに浮かぶ。並んで食べ物をもらう、というところしか合ってない。これは生きるために食べる食べ物ではないのに。おれは生きるためじゃない食べ物が嫌いだ、と二谷は思うのだけど、毎晩ビールを飲んでつまみは食べている。
二谷さんは、生きるために食べ物を選んでいる。
わかる。わかるよ二谷さん。あなたはがんばっているし、がんばってきたし、ちゃんとずっと、その都度悩んでる。
「まあ、でも、そういう時代でしょう、今」とあらゆる状況を呑み込んで自分の役割を理解している二谷さんは、イントネーションはわからないけれど、関西の言葉を使わない。職場は関東。
最後のほうで、一回だけ「ほんまにうれしいんかそれ」と言うのだけど、相手には聞こえない。二谷さんが関西出身なのかも、この小説ではわからない。やけっぱちで関西の芸人風の喋り方をしたのかもしれない。
二谷さんは今の時代に人格を合わせて感情を抑制している。好き嫌いで選んだら損をする世の中であってほしいと考える、そういう古風な面もあって、丁寧なところはちゃんと丁寧にやる。
二谷さんは、食べること健康に対しては斜に構えているけれど、他者に触れることに対してはとても丁寧だという描写がある。
この感じって、なんだろう。
SMAPが歌った「セロリ」がヒットした頃って、平和だったよな・・・。
ふとそんなことを思う。
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わたしはインドで、食べることは舌を喜ばせるためでなく生きるためにすることだと教わったから、二谷さんの気持ちが痛いほどわかる。
この小説に登場する
よりきちんと生きるのが、好き
と言う人の「きちんと」に悪意はない。善意でいっぱいなのだけど、そこには圧倒的に秩序がない。
本人も、「どうなんでしょう。よりきちんと生きるのが、好きなのかもしれないです。」と言っている。
「どうなんでしょう」で始まって、「かもしれないです」で終わる。
どこまでも、どこかから借りてきたスカスカの方針だ。
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最近やっと、芥川賞を受賞する作品の存在の意味みたいなのがわかってきました。
この時代の心の背景を言語化したものが選ばれるのですね。
この物語は、少ない文字数で、よくありそうな会社組織の設定で、よくこの感じをあぶりだしたなぁと思う小説です。
多くの人が、わたしと同じように登場人物の押尾さんと自分を重ねてダメージを食らっちゃったりすると思うのだけど、これを読んだもの同士だと「あのときの押尾さんの気持ちだね」で通じる会話が増えて、「『おいしいごはんが~』にそういう場面があったね」というコマンドが増えます。
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たまたまですが、つい先日、15日の日曜の午後と夜に、同世代の人から二回、それぞれの職場のモンスター社員の話を聞きました。
彼女たちはその話をわたしにすることで、その状況が外の人から見てどのように異様に感じるか、わたしの反応を見ながら考えを整理しているようでした。
ちょうどこの小説を読み終えたばかりだったので、夜に話を聞いた人に「その話とまったく同じようなことが『おいしいごはんが食べられますように』に書かれていた」と話しました。
この小説の話はこわいけれど、ここに書かれていることはそこらじゅうにある現代のリアル。
まずは建前からという暗黙の号令で無理やり回っているホワイト企業の職場の苦しみがギュッと濃縮されています。
交友関係が少ないわたしでも「まあ、でも、そういう時代でしょう、今」とそれぞれの場所で苦しんでいる人の話を1日に2回聞くペースだもの。
植木等の「スーダラ節」の時代に生まれていたら、楽しかっただろうなぁ。時代の変わり目は、まともに受け止めるとしんどいもの。狂わない程度にガス抜きしていかないとね。