『巨人と玩具』という映画を観て、それがとても面白かったので原作小説を読みました。
小説作品の発表から8ヶ月後に映画が公開されており、いまでは考えられないスピードです。昭和33年といえば、わたしの親世代が小中学生の時代。
この物語はキャラメルを売るためにオマケに趣向を凝らして競い合う三社の話で、グリコ・森永・明治の競争を見る感覚。しかも消費者としてターゲットとなる対象が自分の親世代で、仕掛ける側や消費の決定権(おまけを欲しがる子供の親)は、祖父母の世代。
当時からこんなことしてたんだ! という組織内のあれこれがとにかく面白いのですが、付録や懸賞商品の競争に加えて、CM発のキャラクターと同時に売っていく様子は田中麗奈さんがデビューした際のサントリー「なっちゃん」のようだし、子供だけでなく親にすり寄っていくやり方は平成以降の仮面ライダー(お母さんがオダギリジョーの色気にやられる)のようだし、短い物語の中に現在も変わらぬマーケティング戦略の原型が詰まっています。
あとで知ったのですが、開高健さんはサントリーの前身会社の宣伝部のかたで、そりゃあ面白いわけです。*1
原作を含む文庫は、『巨人と玩具』のほかの三作品どれもがすばらしく、お得な一冊でした。
すべての作品に共通するのは、口臭や体臭など、人間のナマナマしさの描写が効いていること。
『パニック』では上司の口臭が、『裸の王様』では小学生の体臭が、『流亡記』では血液と精液の臭い、そして肉と肋骨の動きの描写が印象的に残ります。
上司はストレスで胃が荒れているし、小学生はピュアで自然な匂いを放つ。生きるか死ぬかの状況で見栄を張る余裕がなければ何もかもむき出しになり、出すものは出すし、出るものは出る。
『パニック』では、個体で見たら臆病な生き物が集団になるとこうなる、という様子が描かれています。
『流亡記』では人間が人間社会で役割を果たすときの割り切り方のパターンを見せてきます。その使命を果たすときはめちゃくちゃ悪に徹するのに、仕事が終わるとのんびりした人になったり、定住民族と移動民族では戦い方も守るものも倫理観も大いに違う。
それを愚かなものとして斬るでもなく、それぞれの風土(あるいは業界)と集団心理が書かれています。
あらゆる点から見て私たちは退路を断たれているのだ。私たちはこの時代とそのいっさいの属性からまぬがれることができない。
(『流亡記』より)
短い文字数の中にぎゅっと圧縮してくるので、文庫本一冊を読んだだけでも、数ページごとに覚えておきたいフレーズが登場する濃さでした。
『裸の王様』は、導師と生徒の話に感動したので、以前別の切り口で感想を書きました。
子供が自動的に忖度する構造やグルーミングの手法に対して、わたしの身近で子育てに苦悩してきた・苦悩している同世代のお母さんたちは、そうならないように慎重に悩んできた人ばかり。
そういう問題に意識的な人が読むと、複雑な感情が様々な角度から細かく文章化されていて、その「シンプルじゃなさ」が響くんじゃないかなと思います。