初版が昭和55年(1980年)。ヨガの受け入れられ方がおおらかな時代(オウム以前)で、東洋伝来の日本のヨガに勢いがあった頃の本。
この本の読みどころは、この本が「信じるな、疑うな、確かめよ」のサラリーマン向け翻訳であること。ここでは、「かたよるな、とらわれるな、ひっかかるな」と。
この本はヨガを志す人向けの本ではない体裁なので、かえって沖先生の当時の日々の本音や、過去の葛藤が素直な文章で書かれています。ファンとしてはここも楽しみどころです。
さっそくいつものように、まいりましょう。
<17ページ リーダーシップは宗教心を基本にせよ より>
中堅幹部たるものは、つねにバランスのとれた心を持たねばいけません。バランスというのは、知性、感情、意思が均一にととのっていることをいうのです。それには、日常の勉強と修養が大切なのです。
(中略)
わたしは、毎日、数多くの人と往来していますが、つとめて好感の持てない人に接するようにしています。
「先生はあの人が好きらしい」
道場で、こんなうわさを耳にすることがありますが、実際は、その人が好きではないため、できるだけお会いして理解を深めたいとねがうからなのです。
ここではやんわり書かれているけれど、もうそりゃぁカリスマ視されていたから大変だったんだろうなと思う。
<44ページ 能力開発の決め手は "最後心" にあり より>
自分を支配しているものが、自分の身についている能力であるという事実に気がついたら、自分にとってよいものを感じとり、学んだりして努力すれば、それが体にしみついて、一つの能力となるのです。これが真の自由人だと思います。
さらに、自分の思う通りに行い、考え、しゃべったりすることが、そのまま自然法則に合致するような生活ができるようになったとき、その人は "仏" になったといいます。インドの言葉では仏陀といいますが、これは自由人という意味なのです。
いうなれば、自分の思いのままに生きて、それによって自分にも他人にも害をあたえず、自分も利益を得て、他人にも利益をあたえる状態になったとき、幸福者といい、自由人ということができるのです。
「自分を支配しているものが、自分の身についている能力」。あるがままってことなんだけど、沖先生のこういう日本語訳はいつも秀逸。
<57ページ わが道は近きにあり より>
中堅幹部の諸君には、関心が薄いかも知れませんが、私のヨガ的人生観を述べることにします。
私は求道生活にはいって、すでに四十年になります。私の主張は、無執着、無所有ということです。釈迦は、その悟りの内容を般若心経にまとめています。そして、悟りへの道は、私のいう無執着、無所有ということで、これを一言に要約すれば「かたよるな、とらわれるな、ひっかかるな」ということになります。
(中略)
私が口癖の「かたよるな、とらわれるな、ひっかかるな」という意味は、"全力投球" する場合の心の構えをいっているので、無心でなければ、とても "全力投球" などできるものではありません。これを無意識のうちに身につけることが、宗教的な修行なのです。
私が幹部諸君に求めるのは、一つの仕事に打ち込む場合には、こうした心の構えを持たねばいけません。いわゆる目的のある目的は、あまり成功しません。自分の出世栄達などは眼中になく、ただ一筋に心身を他に献身してごらんなさい。
いまは、「ただ一筋に心身を他に献身してごらんなさい」という教えすらも、言いにくい世の中に見える。「献身に交換条件を出すことは悪いことなのか?」と。誰も悪いとはいっていないのだけど、「悪いことなのか?」という投球を見ることが珍しくなくなった。
<59ページ わが道は近きにあり より>
あの有名な哲学者の西田幾多郎先生は、口をきわめて "純粋体験" ということを説いています。物事を愛したり、認識しようとする場合、邪心があっては、真実に触れることはできません。先入観のない、純粋な目で見、純粋な心で考え、純粋な理性で判断することをいったのです。
私は、この西田哲学の”純粋体験”のことを、たびたび繰り返すようですが「かたよるな、とらわれるな、ひっかかるな」といったわけで、これを実生活に生かすことが必要なのです。
先日紹介した「身体論集成」の感想に少し書きましたが、アンリ・ベルクソンに影響を受けた哲学者が西田幾多郎氏。この時代の日本の哲学はとても興味深い。
<66ページ 人生に "憂い" を持とう より>
私は、人生の憂いに打ち克つ方法として、自分で自分にノルマを課す生活を始めました。それまでの私は、自分につごうの悪いことや、性の合わない人とは、何とか避けて通ることばかり考えていました。
しかし、ふとしたことから、避けて通りたい問題や人間に対応していくことが、自分に課せられたノルマであり、求道の精神であるのを知り、大きな勇気を感じました。つまり、気にかかる問題や人間が存在することは、自分をいじめるためにあるのではなく、私の内にひそむ仏性を開発してくれるのだ、困らしているのではない、それは、私の仏性開発の試練としてあたえてくれるのだ、と思うようになったのです。
「それまでの私は、自分につごうの悪いことや、性の合わない人とは、何とか避けて通ることばかり考えていました。」
もちろんこういうことがあっての沖先生なんだよな、と思いつつ、文章で見るとすごく人間的に刺さってくる。野口先生もこういうことをおっしゃっています。後日紹介しますね。
<95ページ まず素直に観る練習をしよう より>
ものの考え方を述べてみましょう。
冥想ということばがあります。しかし、このことばのほんとうの意味を知っている人は、あまりいません。"冥" という文字は、冥利冥加をいうことばに使われていますが、冥利冥加というのは「知らず知らずのうちに、神仏の広く深い助力を受けている」ことであります。したがって冥想というのは人生や生活について、広く深く観じることをいうのです。
私たちは、ややもすると非常に浅薄なものの見方、考え方、つまり、その時だけのものの見方、考え方をしてしまいます。たとえば誰かがちょっとしたはずみで、道傍で転んだとします。そのとき単純な人は、ただ「今、ここで転んだのだ」として、その原因を考えようとしません。それだけでは、冥想にならないのです。
この場合、その人が転ぶためには、それなりの原因があるのです。石につまずいたり、道にすべったり、あるいは足が老衰で弱っていたり、その原因を深く広く尊く観じるのが、ここでいう冥想というものなのです。
このように、沖ヨガでいう「"冥想行法" ということは、物事を考えることの練習ではなく、ありのままにものを素直に観る練習なのです。
ここで観るということは、「ありのままに観る」ことをいい、これを「如実に観る」ともいいます。その意味は、ものごとを真如のままに観て、ありのままの姿で受けとることであります。そして、それをそのまま行為に移すことを "如来" というのです。
ですから「冥想行法」とはわかりやすくいえば、"如来になる練習" ともいえます。そして、"如来" になる基本は、"空ずる" ことで、"空ずる" とは、如実にものを観ることを邪魔だてするものを無くすることなのです。
(中略)
繰り返しますと、"冥利冥加" ということは、目に見える世界、見えない世界、理解できる世界、できない世界、つまり於至上、於至下すべての世界を一つにした状態でものを感じ、ものを考え、ものを行う身構え、心構えをいっていることをお忘れなく。
つまり、人生のむなしさを知ることが、宗教のはじまりなのです。
カルマについて説かれているのですが、「その時だけのものの見方、考え方」という説明から「つまり、人生のむなしさを知ることが、宗教のはじまりなのです」と無常を説く。やっぱり沖先生のすごいところは、日本語から日本語への「立場間翻訳力」だなぁと、あらためて感じた。
<107ページ 屈託なく、ざっくばらんに生きよ より>
文豪・夏目漱石の名作『草枕』には、こう書いてあります。「知に立てば角が立ち、情に棹(さお)させば流される」と。これは理性と感情のバランスを説いた言葉で、人生を生きていくうえには、極端から極端に走ることは、あまり感心しません。
人間は万事、ざっくばらんに生きることです。無一物になって途方にくれているとき、水一杯、パン一片をもらっただけでも「ああ、ほんとうにありがとうございます」と涙のこぼれるほどうれしいものです。それが、宗教心というものなのです。一方、困っていないのに、何事も怠けっ放しで人の同情にすがるような人は、こんな境地にはなれません。怠け者には「人事を尽くして天命を待つ」というような宗教的な言葉で呼びかけても、絶対に反応はありません。
私のいう宗教というものは、むずかしいことではありません。屈託なく、純粋で裸の心で生きることが、宗教の門へ一歩一歩近づいていくと考えてください。
今は、ヨガに興味はあるけど『「宗教の門」なんて叩く気ないし』という場面が多いだろうし、ヨガの指導の場面でも、たとえばマントラを初めて経験する人に「別に宗教とかじゃなくて……」なんてインストラクターさんがつい言ってしまうような時代です。『「困っていないのに人の同情にすがる」ということをしなくてよいための智恵が宗教です』と、ヨガで何かを学んだと思うのなら、堂々と言ったらいいよ、ね。
(ちなみに「さお」は、のぎへんの旧字でした)
<114ページ "内なる眼" で観よ より>
「感謝できるようになったら感謝します」ではいつまでたっても感謝する気は起こりません。ですから「どうせ感謝しなければならないのだから、感謝心があろうがなかろうが、ありがとうございました」と実行することをおすすめするのです。
(中略)
私は、永年にわたって、結核やガンの闘病生活を経験しています。いま考えてみますと、治病法ではいくら努力しても、ほんとうに治ることのない事をしていたのでした。治療法では、治ったようにみえても、病状が変化したにすぎないのです。多くの人は、治ることと変化することを混同して、単純に治ったと思っているのです。一種の錯覚なのです。
感謝のための交換条件というのはいっけん不自然なのだけど、でもそれは人の心としてあるもので、あっちゃうもんだから、「いいから感謝しなさい」と。こういうところが好きです。「治ることと変化することを混同しないこと」は、「病気と平気を区別しないこと」だってことも、ほのめかされていますね。
<123ページ 敵を味方に変える努力をせよ より>
私はいつも、道場の人たちにいうのです。
「あなたたちは、変化の原理を実行しなければいけません。ある一つのことを練習したら、つぎには他のできないことを手がけるのです」
ということは、おなじことを練習しつづけていると、技術は上達して記録は出せるけど、体力は目に見えて低下してゆくからなのです。つまり、これが生命の順応作用なのです。練習しやすくなったといって、そればかりつづけていると、関連したことばかりが発達して、実際は "かたわ" になっているからです。なにごとも、順応することばかり心がけていると、人間はダメになるのです。一事に順応することはしぜんに安易に流れるものです。
私どもの道場における強化法では、おなじことは決してやりません。毎日、ちがうことをやります。体も頭もおなじで、きのうもきょうもおなじことをやったり考えたりするのは、体や頭の活動を停止させることになります。
人生に終着駅がないように、考えることにも終着点はありません。絶え間なく変化し、絶え間なく進化するということは、自然法則の原理なのです。いつも人間は新鮮であるのが理想で、新しい感じ方、考え方を追求しないと、生命までがマンネリズムに陥ることを知っておいてください。
「おなじことを練習しつづけていると、体力は目に見えて低下してゆく」。これは、すごく実感します。ヨギは職人ではないから、「熟練の技」が「こなれた妙味」になることはない。この「はかなさ」が魅力だ。だから、「とらえたい人」には向かないの。
余談ですが、先週かな。「砂の器」のドラマの最後の30分くらいを風呂あがりに見ていたら、やっぱり親世代の人はおもしろいことを言う。「これは、らい病(ハンセン病)のことを描かないと、この息子の殺意の背景なんて伝わらないんだけどな。人権問題があるからどんどんこうなる。でもこれではこの小説が当時の読者に与えたものが描かれていないからなぁ」といったようなこと。
沖先生のこの本にもその点でくったくのない表現があるし、ほかの古い本ではもっと多く出てくるけれど、「人を強くするための人権」ってなんだろう、なんてことも同時に思ったりしました。
- 作者: 沖正弘
- 出版社/メーカー: 竹井出版
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