友人の勧めで小説を読みました。
ちょうど少し前から黒柳徹子さんのエッセイ『小さいときから考えてきたこと』を読んでいて、わたしは『窓際のトットちゃん』(1981年)を読んだことがないのだけど、あの本がベストセラーになった後のことをそのエッセイで知りました。
当時の親御さんたちが心に抱えていた気持ちを発露するきっかけになった、そういう売れかただったみたい。昭和の終盤のベストセラーです。
そんなわたしが『こちらあみ子』を読みながら思ったのは、『窓際のトットちゃん』の現代版って、こういうことかもしれないということ。
『窓際のトットちゃん』は、あえてドライな言いかたをすれば生存者バイアスじゃないか。『こちらあみ子』が書かれたのは平成の終盤で、多様性の時代とやらを目指すなかで読まれる小説になっています。
“多様性” には当然、負荷を黙って引き受けている人の苦しみも含まれます。それを引き受けた人たちが静かにドミノ倒しになっていく様子を描いた『こちらあみ子』には美談も生存者バイアスもなく、こっちのほうがフィクションのはずなのに現実に近く感じます。
小説の序章で、あみ子の心情(信条?)がこのように描写されています。
友達を大切にしなくてはという思いがある。
小説は15歳になっているあみ子の回想からはじまります。
映画版を観ました
2月10日にレンタルが開始されていました。さっそく観ました。
そもそも、この話を実写化できるものなのか? できちゃうものなのか? と思っていました。
それを実際に観てみたら、ネットの時代以降のコミュニケーションでよくある「文章ではキツそうな人だと思っていたけど、実際会ったらいい人だった」みたいなマジックがありました。子役マジックだけでなく、大人の役者に対しても起こりました。
だけど原作通りです。
あみ子のお兄ちゃんと、お兄ちゃんの負荷を少し引き受けるあみ子の同級生の「のり君」のこともしっかり描かれています。彼らが町の大人たちに対して規範的な態度をとっているところも、映画ならではの補足。
あみ子が「お母さんのお祝いなんよ」と言った直後の、「え、お祝い?」と言うのり君も、お墓事件を遠くから見ていた人が窓を締める姿を認識するお兄ちゃんも、道ですれ違う人やコンビニの人に挨拶をするときの話し方がとても礼儀正しくて、まるでなにかの帳尻合わせをするかのような態度で生活をしています。
そんな暮らしを何年も続けてきて、もうギリギリです。
(ここからネタバレありで書きます)
これは原作を読まないとわからないことですが、住んでいる家は継母のもので、継母は逃げたかったら追い出すしかない立場です。
原作小説では病院から継母が帰宅した日に雪が降っていて、冷たいあみ子の手に触れた継母に対して「なぜいきなりさわってくるのか」と違和感を感じている描写があります。
帰宅したときに小さくなっていた継母のホクロは、その後あみ子にお習字をさせてあげようと思い始めた時には大きくなっていて、元気とともに支配欲が盛り返したかのよう。
傷ついて寝込んでいる人のために手品を用意した日のあみ子はドアもちゃんと締めていて、きっと今日はうまくできたと思っていたんじゃないか。
よく「ボタンの掛け違い」という表現があるけれど、そもそもボタン・ホールの位置も定めずボタンの大きさも吟味しないまま勢いで作られるのが家族ってこともある。
どうにもしんどい話でした。
わたしもこれまで、「どこが悪いかいちから教えてほしい」と、居ずらいけどそこに居るしかない環境で誰かに尋ねてみたかったことが何度かあったけれど、その都度記憶を消してきました。
あみ子がそれをしているのを見て、その誠実さに胸が苦しくなりました。
『ピクニック』という作品(ちくま文庫の『こちらあみ子』併録)
おとといの日曜に、銀座を歩いていてこんな看板を目にしてハッとしました。
雑居ビルの店舗リストのようなプレートです。思わず写真を撮りました。
この看板を見て、数日前に読んだ『ピクニック』という小説の職場のイメージが急に立ち上がってドキドキしました。
この写真の人たちはチアガールの格好をしているけれど、この小説の主人公たちはビキニでローラースケートを履いている設定です。
思い込みと信念の境界が曖昧な人が登場するお話です。
思い込みを信念にしたときに起こる不都合と、それを見守る環境が描かれています。
いくつかの職場で経験したことがあるような気がしました。そして、自分も不都合で身を固めた人になったことがある気がしました。
自覚はあるけど認めたら生きられない感じ。
否認しながらなんとかやっていく様子がギュッと詰まっていました。