うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

なぜの嵐で自分を追い込んで狂わないように(『プロカウンセラーの聞く技術』を読んで)

今月はよい本との出会いがあって、昨年受けたヨーガ哲学講座の内容の濃いところを振り返ることができました。
先日、もうひとつのブログにそのことを書きました。

 

上記の末尾に書いたのですが、『プロカウンセラーの聞く技術』を読んだことで、授業中に何度か名前が出てきた C・R・ロジァースの人間のとらえかたを知ることができました。

 

以下は、昨年受けた授業のなかの、序盤のひとつのトピックです。

 

文章化するとよく覚えているもので、『プロカウンセラーの聞く技術』を読んだら、あの授業の解説のようだと思うことが書かれていました。
以下の部分です。

「来談者中心療法」という心理療法創始者である、アメリカのC・R・ロジァースは、心理療法には診断も検査も必要でない、と主張しました。彼は人間を客観的に評価しようとしても、できるものではないこと、人間の評価はそれを行なった人の先入観となるだけで、来談者には役に立たないこと、評価者と当人の人間関係に対等性が失われること、そして、対等感がなくなると真の意味での心理療法が行えないこと、などを唱えました。
 ロジァースがなぜこのような主張をあえてしたかというと、それまでの心理療法のアプローチが、医学モデルを中心にしていたためです。身体医学モデルは自然科学モデルですから、当然因果関係を追求します。自然科学は(WHY)を追求する学問です。これに対して臨床心理学は、どのように、とか、どうすれば(HOW)を追求する学問です。
心や魂はあまりにも奥が深いため、なぜを追求しても、どこまでいっても、なぜという疑問が消えることはありません。
(14. 教えるより教えてもらう態度で より)

この部分を読んだら、先にリンクした「How ではじまる問いの中にいましょう」の授業で「これが哲学の罠だ」と強い言葉を使った先生の意図が理解しやすくなりました。

 

 

『プロカウンセラーの聞く技術』に、もう一箇所、C・R・ロジァースの名前が登場する章があります。そこでは作法と魂の関係について語られていました。

私の師匠の一人は、ロジァース先生といって、「来談者中心療法」という心理療法創始者です。来談者中心療法とは読んで字のごとく、すべて来談者中心に考える心理療法なのです。
 アメリカ留学から帰ってきて心理療法をするうちに、お花を育てることに興味をもちました。一年じゅう自分で栽培した花で部屋を飾りたいと思いました。事故で夭折した弟の墓に自分の育てた花を供えてやりたいと思ったのも、花を育てだした動機です。心理療法は心を育てることです。心を育てることと、花を育てることには類似性がありました。相談期間が長くかかると思われる来談者が来られたとき、7年後に花をつけるような花を実生から育てはじめました。
 花を育てているうちに、お茶に興味がわきました。そのときに、私が精神科での臨床実習をしていただいた先生がお茶を心得ていらっしゃるのを思いだしました。現実のすべてに狂いがあった女性患者がたまたまお茶を習っていたことを知って、お茶療法をされたのです。女性患者は日常生活の乱れにもかかわらず、先生からお点前(てまえ)を受けるときにだけ作法がよみがえり、正気が戻るのです。お茶の心理療法をくり返すうちに、彼女はそれを通じてこちらの世界に戻ってきました。作法が非現実にさまよう魂を現実に結びつけていたのです。現実ばかりでは、深い話はできません。しかし、非現実の世界ではあやうすぎます。儀式や作法はこれらを結びつける役割をもっています。
(27. お茶室は最高の場 より)

引用が長くなりましたが、最後の「現実ばかりでは、深い話はできません」という部分と儀式の役割の関係性を読みながら、今年観た映画『日日是好日』を思いだしました。
受け入れがたい現実に直面したとき、時間稼ぎのようにやれることは、セラピーになる。

 

「なんでわたしは」という問いほど、自分を追い込んで狂わせるものはないと、中年になると本当によくわかります。
思春期に「なんでわたしは」だったものが、「なんでわたしの人生は」に変わってくるから。

 


『プロカウンセラーの聞く技術』は、今月書店でたまたま目にして買って読んだのですが、パンデミック以降に様々なコミュニケーションを通じて考えたことを大きな両腕で抱えて支えてもらったような、そんな気持ちになる本でした。