先日10人くらいでテーブルを囲んで話をする場で、「ふだん自分の意見を話す機会がほとんどない。話すスキルがないのではないかと、ここ一年くらいで思い始めた」という人がいました。でもその話しぶりはすごくじょうずで、なんでそんなことを思うのだろうと考えながら聴きました。
彼女は以前からお話が上手でした。彼女の話を聴いているとき、わたしは迷子になりません。以下が整理されているから。
- どんな状況のできごとなのかがわかる
- 登場人物の関係性がわかる
- 話した、言った、聞いた、思った、推測した。それぞれの主語がわかる
- 実際にあったこと、思っただけのことの違いわかる
- 過去の感情と現在の感情の時制がわかる
- 初対面の人でも聞いていて状況がわかる
これらの要件を満たしているので、すぐに深い話に入っていけます。
彼女は、もしかしたらいわゆる「プレゼンぽい話しかた」ができないと思っているだけではないかな。でもそれは「お金の取れる級の人」の話しかた。などと、あとで思いをめぐらせました。先にも書きましたが、彼女は話がじょうずです。相対的に見てそう思うのですが、状況が一律ではないため100%客観的な評価ではありません。比較の範囲もわたしが話を聴いてきた人たちに限られています。
話すスキルは、話し方の講座もあったりして、声やビジュアルなども関係してきます。意見を示すとなると、これはテキストだけの場合もあります。
ネットのニュースコメント欄を見るとわかりやすいですが、世の中には「お金の取れない評論家」のような何者でもない人があふれています。そこにある文章は「何者でもなさ」を棚上げした文章。ものすごく雑です。そこにはただ「俺は(私は)有能なのだ!」という強い思いだけが存在しているように見えます。
「何者でもなさ」を明確に認識すればするほど、伝えかたは上達するのではないか。
ふと、そんな考えに行きつきました。
これはわたしがここでブログを書きながら日々実感することですが、「何者でもなさ」を実感するほど、それを補強するための情報に確かなものを集めようとします。例えば旅行に行ったときのことを書くにしても、地名・施設名・店名・年号・時間・距離・金額など、自分以外の人が見ても同じ条件になる要素を整理します。
「ところでおまえ誰?」と言われてもコンテンツだけは孤立して筋が通るように…と考えているうちに、わたしは少しずつ第三者的な視点に近づき、「文章を書いている人」という状態になります。そうなるまでは「感情に任せてタイピングをしている人」というだけ。
アウトプットって、自分を知るきっかけになるんだな。最近よくそんなことを思います。
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