うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

乗り越えたことの記憶は書き換えられてしまうから、できるだけリアルタイムで言語化する

フーミンは47歳で死んでしまった。
豪快に働いて、この世を去ってしまった。
フーミンというのは林芙美子さんのことで、勝手にそう呼んでいます。

 


あの洞察力で心身の内面変化を書き続けてくれていたら、どんなものが読めただろう。自身のなかで日々比率を変えていくホルモンバランスをどんな文章で書いただろう。
気分を文字でデッサンする能力には特に名前がないけれど、若さゆえの弾力、中年になってからわかる揺れ、年齢に関係ない根本的な性質のうねり、フーミンが文字化する感情は、どれも液体が転変するような質感で綴られる。
日記が元になった『放浪記』にソース(源泉)を残していたのも大きいように思う。あれはジップロック。その時の気持ちを保存しておくというのは、だいじなことだ。

 


乗り越えたことは、記憶を書き換えてしまう。
えぐい逡巡が薄まってしまうどころか、なかったことにしようとする。
フーミンの文章は「死にたい」と書いてあってもぜんぜんアリで、それは日常の「死にたい」で、ちゃんと前後があって成り立っている。
「死にたい」が他者の気を引くためのパワーフレーズなんかじゃない。ほかの感情と比べて重くも軽くもない、並列で成立する気分として描かれる。「死にたい」と言っている人が野ションをして「いい気持ち」という。だから安っぽくない。

 


さて。それはさておき。
わたしはいま、60歳以上の女性政治家をめちゃくちゃ尊敬するようになっています。
どうやって心身のメンテナンスを続け、いまがあるのかと尊敬するのです。
フーミンの小説に出てくるような感情を、浪花節にもポジティブ・シンキングにもしない手前の感情を彼女たちから聞く機会はありません。

 


乗り越えて書き換えられた記憶は、何らかのテンプレートにはまっていきます。
乗り越えていないけれど書き換えていることが毎日たくさんあるのが人生のはずなのに。
乗り越えていない、書き換えたい、という葛藤の瞬間にこそ味があるのに、虚栄心がその味を消していく。
だから Instagram はちっともおもしろくありません。