うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

複雑じゃない疲れ方なんてない

先日友人と「晩菊」という小説の中のすばらしい表現について話しながら、つくづく思うことがありました。
この小説は年下の元カレと再会する女性の話で、その時の描写がとにかくリアル。わたしは「晩菊」の映画版が好きな友人の熱弁ぶりからフーミン・ワールド(林芙美子の世界)にハマり、あまりのおもしろさにこの小説の中にある深いテーマをスルーしてしまっていました。
主人公がさくっとヒロポンやホルモン注射を自分で打っていて、あまりの驚きに完全に脳内映像がちょっとコントぽくなる。わたしのなかでは欽ドンに出ていた中原理恵さんの「良い妻」がジャスト・フィットな物語。

 


そんなこんなでしばらく忘れていたのだけど、友人が書いている本の感想を読んで、「お、おおぅ。そうであるよ。そうであったよ!」と、あらためてこの小説の中にある描写を振り返りました。
以下は元カレと再会した56歳の主人公のモノローグです。

長い歳月に晒らされたと言ふ事が、複雑な感情をお互ひの胸の中にたゝみこんでしまつた。昔のあのなつかしさはもう二度と再び戻つては来ないほど、二人とも並行して年を取つて来たのだ。二人は黙つたまゝ現在を比較しあつてゐる。幻滅の輪の中に沈み込んでしまつてゐる。二人は複雑な疲れ方で逢つてゐるのだ。

ここを読みながら「そうなのだ、そもそも疲れに単純なものなんてないのだ!」という当たり前のことを再認識しました。

 

 

わたしはここしばらく、もー、なんでもそうやって単純化しようとして! と、世間にどんどこ登場する表現に対して神経症的になっていました。
「ニュー・ノーマル」ってなんだよと。なにかの間違いじゃないかと思うような表現。
「ステイ・ホーム」は良かった。あれはあれで意味がありました。「ハウス!」と言ったら「犬か!」と怒られる事がわかっているから。「ハウス!」を変換しての「ステイ・ホーム」。あれはうまいと思っていました。

 

 

が。
「ニュー・ノーマル」はさすがにひどくない?
「ニュー・リテラシー」と言ったら難しいだろうということで「ノーマル」にしたならば鈍すぎる。リテラシーもノーマルもまずは範囲指定ありきの言葉。多様化多様化っていいながら、なんなのだ。そこに「ニュー」は乗せようがないの! もー! ばかー!

 


そんな世間にげんなりしていたところで、この再発見。
そもそも心の疲れには複雑なものしかないし、「ノーマル=日和る」という変換を無条件でできる日本人のノーマルには、ニューもオールドもないのです。
フーミンは言葉の使い方がいつもおしゃれなんだよなー。

 

 

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