ドラマ『古畑任三郎』を初めて観たときのような衝撃的なおもしろさでした。
上野千鶴子さんの古畑任三郎っぷりがとにかく素晴らしく、まさかと思う流れから超大物が口を割る。
上野警部は最終話でこんなことを言い出します。
おもしろすぎでしょう。
最終話では2008年の状況について、こんな会話が展開されています。
上野:「愛国心は卑怯者の最後の隠れ家」という言葉もありますが、たいへん危険な政治家が歴史も知らずに「戦後レジームの改革」などと言い出したあげく、再起不能な形で失脚してくれたことはたいへん嬉しゅうございます。
辻井:同感です。
上野:公共性には右の公共性も左の公共性もあるのに、公共性を右派に持っていかれてしまった無念の思いが私にはあります。その点、辻井さんがご自身をナショナリストとおっしゃるのは、どちらの意味なのか。戦時中に軍国青年であることは、そんな単純なことじゃないですよね。
辻井:ないですね。
上野:そのなかにはニヒリズムが張りついておりますね。理想主義というのは現実嫌悪というニヒリズムと表裏一体です。しかも戦時下では、そのニヒリズムはイコール「死」を意味します。
辻井:そうです。
上野:ご自身は死ぬことばかり考えていたと、詩の中で書いておられますね。
辻井:はい、そうです。戦時中、私は短歌ばかり書いていました。(以下略)
(第四章 2008/「死」とニヒリズムと理想主義 より)
第一次安倍内閣終了直後の二人の会話と、そこから根本思想に迫っていく取り調べ。
上野警部は辻井氏と糸井氏の化学反応もニヒリズムによるものだろうと第二章で軽く探りを入れているのだけど、そこは辻井氏にはぐらかされています。
どこまでも自分を知ろうとする切れ者警部を前に、辻井氏が自分を偽る感覚を失っていく第三章で、警部はものすごい切り込み方をします。
「消費社会研究家の三浦展さんが、あなたには破滅願望があったと見ている。自分はその見立てを卓見だと思っている」と自身のスタンスを示し、あなたには死への衝動があったのでは? 個人が消えるのに法人が残るのは耐えられなかったのでは? と詰め寄ります。
そこから、辻井氏はこのように話します。
八○年代に入って、マーケットと自分の感覚との乖離が進んだことを意識するようになってから、自分はキャラクターとして経営に向いていないな、と思うようになりました。
(第三章 1990’ s〜 第四:堤清二のパーソナリティ より)
第三章では自身が独裁的になっていたことを本人がどこまで認識しているかに迫る展開で、読んでいるほうがドキドキします。
「辻井さんは採算を度外視して投資をなさる方だ」という考え方が、社員に定着していたのでは? と問われて本人があっさり認めていたり、それだけでなく、なんと以下のコメントを引き出しています。
この本の出版は2008年。
80歳を過ぎてこんなふうに話せる相手がいたら、思いっきり生きた感じがするでしょう。
ほかにも、リゾート開発の失敗について「二週間くらい休暇が取れる企業が出てくるはず」と、社会の成熟を願いながら理想主義的な感覚を持っていたことを振り返ったりして。
上野千鶴子さんが切り込んだり寄り添ったりしながら、絶妙に会話を進めていきます。夢のような取り調べです。
どの章も勉強になる内容で、特にいまの社会問題と地続きという点で、第二章で扱っている雇用問題の掘り下げは強く印象に残りました。
1985年の男女雇用機会均等法成立の流れが語られているのですが、「辻井さんは当時の労働省の男女雇用機会均等法・諮問委員会の委員をやっておられたと伺っています」というところから始まり、辻井氏がペラペラと桜を見る会のエピソードを "おじさんたちの愉快な思い出" として語るところまで、一連の流れに凍りつきます。
小売業の経営者としては、男女の賃金差を固定したまま均等法を使えれば、低コストの人材を長く使える。上野さんは「小売業の経営者としては賢い選択」と辻井さんを褒めるのだけど、この章の小見出しは『女の使い方、使い捨て方』。
こんなに緊張感を持って読める対談本はなかなかありません。
西武百貨店の広告を社員のリテンション・教育と考えていた話は、大手企業が「リモートワーク推奨の社内規定変更」をネットニュースに流すのと似ていると思いながら読みました。
辻井氏本人が宣伝部に直接関与していたという話からマーケティング戦略の話へ行くかと思いきや、そうはならず、こんな話がされています。
上野:八○年代初めの西武の宣伝費のシェアは、他の百貨店と比べてもそんなに高くありません。当時、宣伝の御三家といわれたのは、サントリー、資生堂、西武ですが、西武の宣伝費は売上げの三パーセントを超したことはないですね。特にカネをたくさん出すわけでもないのに、宣伝部のプロジェクト・レベルまで直接関与するというのは、どういう動機からでしょう。現場の担当者にとっては迷惑でしょう(笑)。
辻井:これはあんまり言っている人はいないと思いますが、自社の広告であれば、ある意味、非常に社員自身の注目度が高いわけです。宣伝の結果は社員教育にもなりました。
(第二章 1970’ s〜80’ s 社員の心をつかむ広告を より)
売上の3%の範囲で社外・社内への影響を調整するのは効率がよく、包装紙以外のところで存在価値を作らなければいけない後発の百貨店として、ものすごく賢いやり方。
上野警部は「一種のCI戦略ですね」と、ここは花を持たせています。花を持たされた時の辻井氏のちょっと気持ち良さそうな感じもまた、読んでいておもしろいんですよね……。(警部がときどき銀座のママになる感じ)
これまでに読んだあらゆる対談本のなかで、ダントツのおもしろさでした。
上野千鶴子さんは社会学者として自分のスタンスをその都度明確にし、切り込んでいきます。
辻井喬さんが「場」や「文化」を作ろうとしても、結局「人」に人がついてきてしまう。その独裁的スパイラルと葛藤を自分なりにどう分析していたのか。「見えてないわけないですよね」という前提で繰り広げられる会話が、最後までとにかくおもしろい。
終盤で上野千鶴子さんは、オウム真理教を引き合いに出しながら、擬似的共同体が求められつつもコミュニケーションがさらに匿名性と同調性を増し、共同性が成り立たないことを問題視ししていると語っています。
それに対し、辻井氏がこのように答えています。
いや、私もね、確固とした「こういう共同体こそ」という代案が対置できないのはもどかしいんです。どこで、どういうふうに共同体をつくったらいいかということは、成熟した産業社会の中で人間がどう生きていくか、という問題とストレートに関連する大きな宿題だと思います。
(第三章 1990’ s〜 共同体の再構築からビジネスを考える より)
新しさだけでなく、前向きなエネルギーが集まる場を作りたかったという思いが、ここで見えてくる。
上野千鶴子さんもこの問題を深く理解しているからこそ、それがうまくいかない理由を、巨大なビジネスと雇用の現場を経験した人から聞きたいのでしょう。
ここは、この二人を結びつける磁力を感じる会話として、とても印象に残りました。
『叙情と闘争』を読んだときから、辻井氏は人間関係の複雑な局面のはぐらかしかたが独特だなと思っていたのですが、上野警部の手にかかると小さな抜け穴が全部塞がれてしまう(笑)。もう喋るしかない展開。
読む前よりも読んだ後に「夢の競演!!!」という感想を強く抱きました。