うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

不道徳教育講座  三島由紀夫 著

今じゃNGなことばかり書いてあります。

『週刊明星』という女性向け大衆週刊誌への連載だったそうです。

なんだか世界が反転している気がするけれど、それでいいんですね。これは不道徳教育講座だから。草食推奨ではなく肉食の時代だから。うんうん。ああ、頭が混乱する。

 

この本は、以前読んだ『行動学入門』と、少し感じが似ています。

思い込みの激しい人のこわさをコミカルに書くのがうまく、その背景にある分析がおもしろい。

 九十九パーセント道徳的、一パーセント不道徳的、これがもっとも危険な爆発的状態なのであります。七十パーセント道徳的、三十パーセント不道徳的、ここらが最も無難な社会人の基準でありましょう。このパーセンテージは、なかなか数学的に行かないのであって、一パーセント不道徳氏のほうが、三十パーセント不道徳氏よりも、ずっと犯罪の近くにいることが多い。

(沢山の悪徳を持て より)

 

 若い人というものは、殊に喧嘩の話が好きです。若いくせにひたすら平和主義に沈潜したりしているのは、たいてい失恋常習者である。

(喧嘩の自慢をすべし より)

 

 どんなに醜悪であろうと、自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿をみとめてもらい、あわよくば真実の姿のままで愛してもらおうなどと考えるのは、甘い考えで、人生をなめてかかった考えです。

(告白するなかれ より)

社会のなかで違和感を抱かせるほど平和主義的な人(わたしはそれをサットヴァぶりっ子と言ったりする)のエゴを、もうそのくらいにしといたってというくらい、バッサバッサいく。容赦ない。

 

 

秀才バカ、謙遜バカ、ヒューマニスト・バカ、自慢バカ、三枚目バカ、薬バカ……とひとつひとつ丁寧にさばいていくなかの「謙遜バカ」は、いうたら三島先生版のぶりっ子解説。

 何でも謙遜さえしていれば最後の勝利を得られるという風に世間を甘く見て、ことごとに、「私のようなものが」とか「不肖私が」とか言い、謙遜の裏に鼻持ちならない自惚れをチラチラ見せ、それでいて嫉妬心が強く、怨みつらみをみんな内攻させ、嫉妬深いから人の長所がよく目につき、被害妄想からそれをみんな褒めてしまい、あとで後悔して自分を責め、ますます謙遜して復讐の刃をとぎ、道路は必ず端のほうを通り、(以下略)

(馬鹿は死ななきゃ……   より

“させていただく” を連呼したり、いつも漠然と人を褒める人が被害妄想家であるという、よく見る光景。

 

 

こういうブリっ子的分裂感情を生み出す風土について、以下のように語る著者の弁舌は、まさにコロナへの対処の心理実況でもあり、自分は日本人だなぁとしみじみ感じます。

 日本人は、日本の社会の掟というものこそあれ、在日外国人とほぼ同じ程度の行動の自由があり、道徳観というものに悩まされずに、いろんなワルイことができます。しかも西洋人ほど体力がありませんから、ワルイことと言ってもほどほどのことしかせず、まず体力が道徳の代りをしています。それに、いくらワルイコトをたのしんでも、西洋人の顔のような空白感や寂寥は刻まれず、呑気な、明るい、たのしい顔つきで暮して行けます。これは日本人には、はじめから、あのキリスト教の神様みたいな、厳格な、様子ぶった、ヤキモチやきの、意地悪千万の、オールド・ミス根性の神様がいないからで、そんな神様にとりつかれた経験がないからです。従って、片っ方でワルイことをしながら、片っ方で自分を罰してくれる神を恋しがるというような、複雑きわまるアブノーマルな心理がないからです。

 皆さん。キリストのない国に生まれた幸福は、実に偉大で、たとうべからざるものであります。

この幸福な日本に生れていながら、神様を恋しがるなどというのは、少しパアではありませんか。

(道徳のない国 より)

「呑気な、明るい、たのしい顔つき」というのは、映画『東京物語』を音声なしで観ると異様に不気味と感じる、あれのことかしら。

わたしは神様を恋しがってはいないので、この点を大変重要な指摘と感じます。

フランスやイタリアで生活している日本人の友人の鬱憤を聞くと、彼女たちのつらさはこれかと感じたりして。

 

 

何人かわたしの好きな有名人のエピソードもあり、なんと里見弴さまも登場していました。

そしてもちろん石原慎太郎氏も登場していたわけですが、それ以上に「小森のおばちゃま」がすごい破壊力でした。

映画評論家のKK女史と書かれていますが、わたしは世代的に話の内容でわかってしまう(笑)。

著者は、おばちゃまにこんなことをされたそうです。

「あなた、ニューヨークで、ディーンのよく行くレストランで、ディーンのいつも坐っていた席でごはんをたべたって言ってたけど、そのときあなた、どんなズボンはいてた?」

 と訊くから

「さア忘れちゃった」

 と答えると、

「そのとき履いてたズボンを私に頂戴。ディーンの坐っていた場所に坐ったズボンを」

 と、おどろくべき要求を出し、

(以下略)

ディーンの菌を、オミクロン・レベルで欲しがるおばちゃまの執着力!!!  脱帽です。

この話は「お見合いでタカるべし」というコラムのなかに、しれっと差し込まれていました。

 

 

自分の不道徳を自覚しないままマントラを唱えることに抵抗を抱く。その感じがあるからこそ、なぜ唱えるかという問いの意義が際立つ。

この順番が日本人の学びのプロセスとして自然だと思っているわたしにとって、どこまでが道徳的でどこからが不道徳かを軽く扱いながらど真ん中をついてくるそのやり口に、小説家ってすごいわと思ったのですが、その気持ちすらも「小説家を尊敬するなかれ」で踏みつけられる。

しかもそのコラムの中で、里見弴さまが軽くディスられてる! なにしてくれるの!(笑)

 

精神的にプラクティカルなのが好きな人には楽しく読めて、そうでなければ「昭和ひどすぎwww」みたいな感想になり、時代を飛び越えて怒るフェミニストは憤死しそうなコラム集です。