うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

自虐が卑屈に見えるとき

先日、ある本を読みながら、これまでわたしが薄ぼんやりと自分の心の中に見ていた霧が晴れることがありました。


わたしはたまに自虐表現について考えることがあって、それは自虐が卑屈に見えるときとそうでないときの境目ってなんだろう、ということ。

他人の文章を読んでいてそれを感じる。だから当然自分にもあるわけなのだけど、自分のことになるとそこは見たくなくてシャット・アウトしてしまいます。


自虐にもいろいろあって、冷笑的な人への刺激を薄めたり、意地悪な人にスルーしてもらうことが目的の自虐もあります。それの多くは謙遜に近い形をとるのだけど、そしてそれはもはや謙遜ではないのだけど、それすらもちょうどよくやらないと、「そんなことないですよ!」と言う声があがったりしてややこしい(笑)。

なんなら、かえって自分を人気者に見せる展開になったりするから加減がむずかしい。意地悪な人の目を逸らすための謙遜が本末転倒になる。

自虐というのはこのように、とってもむずかしいもの。なのに安易に多くの人が自衛のための自虐や謙遜を続けるものだから、読み物がどんどんつまらなくなってる。

 

そんななか、そういうすべての使い分けが以下のエッセイは絶妙で、こんなうまいのってある?! と思うほどでした。


自虐がまるで効果音のよう。
書かれている内容にゴロッとした中身があって、そもそもの行為に目的(映画づくりのための取材とか、公開のための編集とか)があるから、書き手自身へ向けられた自虐視点が場面スイッチ音として響く。

 

 

あーーー、これかーーー。と思いました。
のっぺりしたものに自虐を入れても、なんにも ”転換” の効果が出ないのです。

 


わたしは中年女性の憂いを茶化した文章を読む時におもしろいと感じるものとそうでないものがあって、それは中身よりも「人」を見て読んでいるからなのか……、とウニャウニャ思っていたのだけど、違った。

 

 

  ものすごく個人的かつ具体的な経験が書かれているか

 

 

ここみたい。
個人的 + 具体的 + 経験。
一般化できない超具体的な経験語りに入る自虐はちょうどよく響く。

 


同じことをマーク・ボイルさんの本でも感じました。

 

 

わたしは自虐の一文をなんとなく添えるように書くとき、自分の雑さをコンマ秒単位で感じます。
この感情の解明に、上記の二冊の本がヒントをくれました。
自虐をするからには現実社会で具体的な経験をして失敗もしないと。それがないと精神が貧乏くさくなる。

そういうことみたい。