意外とヨギックな発言が多いのも読みどころだったりしますが、あえてこの作品を大胆にひとことでまとめてみましょう。
ひとり発言小町!
アップダウンの激しい女性の日常心理をスキャンしテキスト化したような内容。
蒲団を持ち上げるとき、よいしょ、と掛声して、はっと思った。私は、いままで、自分が、よいしょなんて、げびた言葉を言い出す女だとは、思ってなかった。よいしょ、なんて、お婆さんの掛声みたいで、いやらしい。どうして、こんな掛声を発したのだろう。私のからだの中に、どこかに、婆さんがひとつ居るようで、気持がわるい。これからは、気をつけよう。ひとの下品な歩き恰好を顰蹙(ひんしゅく)していながら、ふと、自分も、そんな歩きかたしているのに気がついた時みたいに、すごく、しょげちゃった。
末尾が(笑)。
結局は、私ひまなもんだから、生活の苦労がないもんだから、毎日、幾百、幾千の見たり聞いたりの感受性の処理が出来なくなって、ポカンとしているうちに、そいつらが、お化けみたいな顔になってポカポカ浮いて来るのではないのかしら。
よくわかっていらっしゃる。
早く道徳が一変するときが来ればよいと思う。そうすると、こんな卑屈さも、また自分のためでなく、人の思惑のために毎日をポタポタ生活することも無くなるだろう。
うーん、ここは、オッサンが出ちゃってるかな。そもそもオッサンが書いているのだ!
以下は、前半はとてもヨギックなのに、なぜ後半がそうなる?!という奇跡の転調。
人間は、立っているときと、坐っているときと、まるっきり考えることが違って来る。坐っていると、なんだか頼りない、無気力なことばかり考える。私と向かい合っている席には、四、五人、同じ年齢とし恰好のサラリイマンが、ぼんやり坐っている。三十ぐらいであろうか。みんな、いやだ。眼が、どろんと濁っている。覇気が無い。けれども、私がいま、このうちの誰かひとりに、にっこり笑って見せると、たったそれだけで私は、ずるずる引きずられて、その人と結婚しなければならぬ破目におちるかも知れないのだ。女は、自分の運命を決するのに、微笑一つでたくさんなのだ。おそろしい。不思議なくらいだ。気をつけよう。けさは、ほんとに妙なことばかり考える。
これまた最後が(笑)。
本能が、私のいままでの感情、理性を喰ってゆくのを見るのは、情ない。ちょっとでも自分を忘れることがあった後は、ただ、がっかりしてしまう。あの自分、この自分にも本能が、はっきりあることを知って来るのは、泣けそうだ。
ヨギやんけ!
私たちは、決して刹那主義ではないけれども、あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それは、きっとその通りで、みじんも嘘のないことは、わかっているのだけれど、現在こんな烈しい腹痛を起しているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。きっと、誰かが間違っている。わるいのは、あなただ。
「貨幣」にもあった、いきなり共犯者にされるこの技法、すごい。そしてこの部分の指摘はかなり鋭い。
はじめは少女マンガみたいな小説に大人の男性たちが熱いレビューを書いていたりするのがわからなかったけど、この作品にはオッサンとしての太宰さんの骨太な思想が横たわっている。うまいこと書くもんだなぁ。
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太宰治 女生徒 - 青空文庫