うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ドリーム・ハラスメント 「夢」で若者を追い詰める大人たち  高部大問 著

穏やか〔という状態〕とはどういうものかを学んでいる状態の人間に対してシャーンティな前提でこられたら、もうそれはシャンティ・ハラスメントだわよぅ~と思ったことはありませんか。わたしはあります。「あなたは絶対大丈夫な人間、わたしはダメな守られるべき人間」という前提でずんずん来られた時にそう思います。この本「ドリーム・ハラスメント」のタイトルの意味は、それと似ていました。
読みながら、ヨガマットを持って電車に乗っていると絶対に席を譲る人でなければいけない気がするプレッシャーについて読書会で話してくれた人のことも思い出しました。ヨガの練習者のかたと行う読書会では、たまにこういう話になることがありました。(自我に向き合うって、こういうことよー。ねー☆)
この「ドリーム・ハラスメント」という本は、子供らしさやティーンらしさのイメージの延長線上に「夢がある」という前提を乗せる気持ちのあつかましさ、その構造を整理してくれています。


この本一冊を通して語られているツッコミは、あるコントを思い出させるものでもありました。
まえに浅草で見たゾフィーのコント。それはプロ野球選手が病気で入院している少年の病室へサプライズで行く話で、少年は選手にあこがれを持っていて、はじめは感動の物語。どこかで何度も見たような感動の物語。ところが少年はそもそも野球が好きなので、途中からその選手のバッティングについて言及しはじめます。ここからがすごくおもしろかったのを記憶しているのですが、おもしろかったことだけを強烈に記憶していて、会話の内容は具体的に覚えていません。
コントのおもしろさって理由を説明しようとした瞬間からだめになっちゃうのだけど、この本はまるであのコントの「ところが」の解説書のよう。なぜ好きの種類や好きになるまでの物語まで、前提として共有できなければいけないのか。どこまで純粋で一生懸命でちょっとかわいそうで、基本的にけなげな感じがしなければいけないのか。


著者は大学職員で、「夢」を事実上「職業」という意味で語る場面での「ドリーム」にうんざりする気持ちを代弁してくれています。著者はわたしよりもうんと若い人ですが、わたしもなんだか肩の荷を少し背負ってもらったような気のする、そんな内容でした。
将来について少しでも考えればトーナメント戦に参加しなければならない。そういうシステムが現代の若者世代に持ち越されることについての問いの連続です。

 選べる可能性と選ばれない危険性。天国と地獄。不自由だったが選ぶ手間が無かった時代から、自由だが選ぶ手間と選ばれる努力を要する時代へ。私たちは、振れ幅の大きい職業観の時代を生きているのです。
(第二章 職業以外の夢が認められない異常 より)

 アドバイスが容易ということは、手軽に目の前のことに努力させることが可能ということです。若者たちに夢があると嬉しいのは実は大人の方なのです。
(第三章 タチの悪い悪意無き共犯者たち より)

この本では序盤で、TPOに合わせてその都度それらしい夢を回答していくタイプを「捏造型」と言っていて、わたしはまさにそれで来たのですが、自分では「アドリブ型」と思ってきました。内面の言語化能力に差のある者同士が話す状況を避けられない以上、若者が捏造もアドリブも奪われたら行く場所がないもの。「アドリブ鍛えてこ!」くらいに思っていました。

 

「夢」という単語を職業の話に使うのをそろそろやめたほうがいいんじゃなかろうか。ドリームジャンボ宝くじと用法を区別できない人が多いってことになると、害の域になっているように思う。「夢とか、ないの?」なんて若者に聞いちゃったことがある人は、この本を読むと、自分で掘った穴に自分で入ってみる思考実験ができます。
なんとか生きてりゃいいじゃん、という考えではだめなのかしら…と思う瞬間に自分で自分に気づく頃には、もう身体が自然に夢フレーズ的文章をさらさら捏造できるようになっていた、というわたしのような人は少なくないと思うのだけど、どうかしら。カラオケの普及で素人でも歌の上手い人が増えてきた、みたいなことが職業選択の場面にあると思うのだけど、ないのかな…。

これは深堀りしようとすればするほどしんどくなって、スピリチュアルに振り切りたくなっちゃう。振り切らんけど。そういう種類のテーマだわと思いながら読みました。