先日、インドを旅している夢を見ました。
どこかのアシュラムで練習をしていました。知らない架空の場所です。
その日が満月の日であることを忘れて練習所へ行ったら「今日は満月なので通常のクラスはありません」という趣旨の録音音声が流れていて、流暢な英語が聞こえていました。
起きている時のわたしはスラスラ英語を扱えません。
だけど夢の中では本物の英語のアナウンスを聞いている感じがあって、同時にその音声の内容を作成しているのもわたしだという実感が途中で起こりました。わたしが入れそうなスクリプトが英語で入ってきました。
・・・というところで、目が覚めました。
夢を見ながらその制作者である自分に気づいたときが、現実に戻ってくるときです。
英語の本物っぽさ
これまで、脳内映像での本物っぽさの捏造は認識があるのだけど、音で感じたのは初めてでした。もしくはとても久しぶりのこと。
人間の脳というのは恐ろしく思い込めるというか、自作自演でかなりリアルに視聴覚をねじ曲げる事ができてしまう。
それを思い知りました。
音は初めてでしたが、色やトーンは、これまでに何度か途中で脚色をしようと思った瞬間に目が覚めています。
夢を見ながら途中で「ここは赤みを強めたらもっといいだろうな・・・」なんて編集意識が働いて、その企図に気がついて目が覚める。
わたしの思い通りに脚色したい気持ち。
眠りの夢から醒める瞬間に気づきがあります。
* * *
先週、BookClubで森鴎外の『高瀬舟』について話したときも、似たことがありました。
参加者との会話の中に、このゾーンに触れる瞬間がありました。
『高瀬舟』は安楽死や介護福祉と貧困の問題、さらにはベーシックインカムのような社会責任など、現実的なテーマを扱った短編です。この簡潔さでここまでの拡がりを実現するとは文豪おそるべし、と舌を巻く名作です。
そこにはヨガでいうサントーシャ (足るを知る)をそのまま体現しているかのような人物と、その人物を聖者のように見つめる視点があります。
その視点はどこで作られているものなのか。
主体と客体の問いの余地をふわっと残す、絶妙な書かれ方をしています。
わたしが先日見た夢もそうですが、それが本物である “感じ” は捏造でき、自分の中でふわっと完結できてしまう。
だからこそ、「人間の脳には、そういう働きの瞬間があるよね」という話が他人とできると、正気から離れてしまう恐怖に向き合える気がします。
ホルモンバランスが乱れるときに起こる現象への自己理解にも、この感じが役に立つ。
人生後半になると、ヨガの練習の経験が自分の中で変わってくる。
ヨガの練習自体はそのまま継続しているように見えても、自分自身の変化への理解が変わっていく。
こういう実感を持っている人って、どのくらいいるのだろう。
脚色のない人生経験の話を、善いことにも悪いことにもしない話を、いろんな人の話を聞いてみたいな。