美談ならよかろうと、記憶を書き換えたり解釈の範囲を広げることを無邪気にやる人は多いもの。
これは意識をするきっかけがないと、お年寄りになってもやる人はずっとやる。そういうものじゃないかと思います。テレビの構成を見ていても、それが前提になっているようなところがある。なのでそんなに異常ではないんじゃないかな。たぶん異常では…、ないのですけどね。
わたしが行ったことのないヨガ教室で「うちこさん」の話をされてることがあるくらい、こういうことはヨガの場でも起こります。
「うちこさんて、あのK先生のクラスに通っている人ね」ということで話をされていることがあると聞きました。K先生には会ったことがないのだけど、その話をしている人のなかではそういうことになっているそうです。K先生のブランド・イメージを傷つけないよう、精進せねば。
記憶の捏造
別の角度でも、思い出すことがあります。
わたしがここで何冊か本を紹介しているヨガの先生から直接ヨガを習っていたという人が、「偉大な先生の価値がわかる、あのブログのうちこという人は、自分たちの価値もわかる人」という図式からなのか「自分たちの仲間の食事会に、うちこさんも参加したいでしょう」というトーンでお誘いをくれたことがありました。これは記憶の捏造というよりも、認識の拡大というほうが正確かもしれません。
もちろんそこで「あなたの先生の著作を読んで、わたしはそのかたを偉大と感じていますが、あなたのことを尊敬する材料をまだ得ていません」なんてことは言いません。相手の想像にないことは言いません。
んー、なんというか、とにかく
言わないよね
でもこの小説では、言います。とことんいきます。
そしてその行為を成立させるのは「相手の思い込みを指摘できる立場に自分がある」という思い込み。
「いまだからできる」という、その一瞬にかけた行動。復讐意欲のなせる業。
たとえ訂正や仕返しやおしおきをしたくなっても、
相手の想像にないことを言わない
これは記憶を捏造された側からすると、つらいことではあります。でも、それもまた慈悲。
こういう種類の慈悲を人前で常に発動しなければいけない芸能人や有名人にはそれなりのサポートや守衛が必要で、それなりの単位の対価が動きます。自己顕示欲だけでやっていくには、たいへんな仕事でしょう。と思うのだけど、この小説に出てくる芸能人は、そうではない。
この短編は勧善懲悪の設定になっているけれど、「記憶の捏造をしないでください」というのは、すごくむずかしいこと。
たしかにこの小説に出てくる中年女性の記憶の捏造のしかたは雑すぎる。でも、こういうおばさんは多い。あまりに多くて日常的なので、ぐいぐい刺さります。いっきに読まされはするのだけど、この小説はヤング向けなのだろうか。
読後にふと、乙武さんがイタリアン・レストランのサービスについて twitter で発言したときの騒動を思い出しました。