少し前に読んだ「武器になる哲学」がおもしろくて、ちょっと毛色の違う本を読んでみたくなりました。
読んでみたらズドーンとくる展開で、後半が付箋だらけになりました。
善悪の判断において、最も普遍的に用いられている基準は、当然ながら「法律」ということになります。しかし、すでに本書において何度も指摘した通り、情報通信技術や人工知能の急速な進化により、今日、様々な領域において「システムの変化に対して、法整備が追いつかない」という状況が発生しています。
(第6章 美のモノサシ/鍵は「基準の内部化」より)
AmazonのおすすめはKindleを使っていると「いままさに」読んでいる著者のものを勧めてくるし、Meta(旧Facebook)の節操のなさはもはやユーザーが諦めるところまでいくレベル。
気にすると疲れちゃうから気にすることを放棄したくなるのは疫病が転変して拡がる速度への諦めとそっくり。そんな世の中で、それでも諦めずに方針の舵をどう切るか。
昨年読んだ遠藤周作さんの小説『海と毒薬』もこの本で提示されている問題と同じテーマを扱っていたように思います。
著者は第6章で、事例として自動車のマツダのデザイン戦略の話に触れ、従来型のマーケティングを「顧客のニーズや好みを探り、それにおもねっていくという、卑屈な思考」と表現されていました。
強い表現ですが、手法やロジックに逃げる自分の卑屈さを忘れないでおくというのは、あとでそれがぶり返してきたときに受け止める覚悟にもつながる。
無印良品は「ファッション性の高い商品を手がけるようになってはいけない」という方針を持っていたと少し前に別の本で読んだのですが、美意識というよりも哲学といったほうがしっくりくる、そういう場面はたくさんある。
この本は第5章がとても興味深い内容で、タイトルは「受験エリートと美意識」。オウム真理教のシステムについて触れられています。
著者は信者を “極端に単純化された階層性への適応者” として見て、以下のように分析されています。
極端に単純化されたシステムの中であれば、安心して輝いていられる人たち。しかし、実際の社会は不条理と不合理に満ちており、そこでは「清濁併せ吞む」バランス感覚が必要になります。彼らはそのような社会にうまく適応できず、オウム真理教へと傾斜し、やがて外界をマーヤー(幻)として消去させようとしました。
(第5章 受験エリートと美意識/「偏差値は高いが美意識は低い」という人たち より)
わたしは前に以下の本を読んだ時に、ダサいと感じる気持ちすら捨てられるという評価軸に驚いたので、この指摘に大いにうなずきます。
本格的だけど陰気なヨガ(あるいはそれをする人)に出会ったとき、その状況をどう捉えるか。
わたしはこれまで、本格的だというのはわかるけれども無理……と思う場への誘いや、さまざまことへの反応を求められるたびに、自己分析を繰り返してきました。
これは自分のなかにあるどんな差別感情か、これはルッキズムかと自分を責めてきました。
この本を読んでいたらそれが経営の視点から説明されていて、興味深い本からの引用がいくつかありました。
第4章ではセルフアウェアネスとマインドフルネスに触れられていて、瞑想によって島皮質と前頭前野の厚みが増すことや、自分自身についての状況認識が強化でき、前頭前野には「美を感じる役割」があることが近年の脳研究からわかってきていると書かれています。
「ひとまず形にはなるけれど、それでいいのか」という感覚は、疲れている時ほど流してしまいがち。美を感じられる脳の状態でいるために瞑想をしていると思ったことはなかったけれど、精神が安定する理由と何か関係がありそうです。