この本は著者の母親に起こった出来事から話がはじまります。
残り数ヶ月の余命宣告をされ、その前提で暮らして財産を使い果たした頃にガンが自然暖解して消え、その後もしばらく生きたのだけど、周囲は病人扱いをやめない前提で社会が回っていた。その設定から抜けられないことで、どれだけのエネルギーの健全さが封じられたか。そこに着目して書かれています。
モリエールのコメディ『病は気から』『いやいやながら医者にされ』で指摘されていることをハーバード大学の教授(著者)が実験で裏取りをして解説したような、そんな内容です。
後半にあったマインドフルネスの伝染に関する実験は、現代の感覚でいうとかなり失礼な(=正直な)方法の実験だと思うのだけど、結果については読んでいて納得するところがあります。
マインドフルな状態の人といると、やはりコミュニケーションの性質は違ってくると思うことがあって。前提をほんの少ししか確認していなくても、一緒に手足や画面を動かしながら話せる人っているものです。
著者は苦しみの原因を予測する思考と紐づけた視点が多く、このようなトーンで語られます。
何がコントロール力を生じさせるかについては、わかっていないことが多いので、コントロールの可能性を否定してしまうと、状況に影響を及ぼす自分の力をみくびることになる。だから私たちは、たとえ心理学の賭けの実験で不利な方を選んでしまうにせよ、自分にはものごとをコントロールする力があると信じている方がいいのである。
わたしはヨガの本を読んでいる時に、英文で書かれた本のほうがしっくりくることが多いのですが、それはたぶんこの上記の力のことを will power と書いているからじゃないかと思います。
それを日本語にするときに「望む力」も「信じる力」も「念力」も当てはまらなくて、「主体的実行力」が近いといえば近いのだけど、それも進みすぎな感じがする。もう少し手前にある「不利でもいいからこうしたいと自己認識する力」のようなものがあると思ってきたので、なので上記の引用部分を読んで、それな! と思いました。
この本を読みながら、マインドフルについて語るときはマインドレスについて語るほうがわかりやすいことをあらためて確認しました。
人は何かについて解釈が必要な時、マインドレスに何かの説明を思いつくと、たいていはそれ以上考えない。
(第5章 思考をもう一段レベルアップする より)
マインドレスに使える「それらしい説明」は、種の植えられていない畑に降る雨のようなもの。
他人の言葉を拾って自分の解釈にするのはラクだけど、それはマインドを使ったと言えるのか。
マインドフルって、繊細で尖ってて、おまけにマッチョなところもある。外側から見たらそう見えることもある。おもしろいことを教えてくれる本でした。