先月、オウム真理教関連の本を二冊読みました。
全く関係のないジャンルの本からたどり着き、それらの本を読みながら思い出すことがありました。
わたしはインド人の先生が経営するヨガ教室でヨガをはじめて、そこでインストラクターになりました。その教室にいた頃に、先生に対して特別な期待を抱く人を見る機会が何度かありました。
その後もこのブログにインド旅行記を書いたことで「あの人物に会ったことはあるか」という質問を受けることがあったりして、この17年ほどの間、こういう気持ちを強く抱く人はオウム真理教の事件の後も一定数いるんだな、と思ってきました。
その印象について、やっと自分の言葉としてそれをあらわすフレーズが出てきました。
いちばん強烈に効く漂白剤を探している人
自分は最短の道を選んだと思えるようなグルを探している人がいる。
いちばん強烈に効く漂白剤
掃除は日々少しずつやるもの、擦って汚れを落としていくものだと、人生訓や生活情報として知ってはいても、心の奥で強烈な漂白剤を求めてる。
その人たちが探しているものが特効薬ではなく漂白剤だと感じたのは、効かせたい目的・目標があるわけじゃなくて、一般社会とは別のところに光り輝く特別な道があると信じたい、そんな思いを感じたから。
冒頭に書いたインド人の先生はわたしが生まれた頃から日本で暮らしていて、日本の地方の特色もよく知っていました。日本社会や日本人の考え方を長年よく観察している人でした。(参考エピソード)
先生のところへグルを探している人がやって来たときの加減はいつも絶妙な "うす塩" 。濃くするとそれはそれで崇拝されてしまうからでしょうか。微妙に加減の違う塩対応を何度か見ました。
オウム真理教の事件の頃は先生の教室にも警察がやって来て、当時は生徒が外国人だけになったそうです。警察は僕の顔を見たらすぐに帰ったけどね! と笑いながら、当時のことを教えてくれたことがありました。
ショートカットやスピードを求める気持ちが危険なものであることを、わたしはその先生から「ゆっくり、ゆっくり」と何度も言われることで教わりましたが、油断をすると急いでしまいます。それはやはり心の問題です。
インドに数ヶ月滞在してヨガを習ったときも、心の面で教わったことは結局同じでした。
効率主義と虚無主義の組み合わせって、矛盾しているのに妙に食い合わせがいい。このこと気づくきっかけになるのは、「自分は漠然と急いでいる」という瞬間の客観視と、それを続けていくこと。
冒頭で、先月オウム真理教関連の本を二冊読んだと書きました。
そのうちの一冊には、日本社会の背景や日本に伝わった密教の歴史を掘り下げながら書かれていました。ああいうことが起こる日本社会のありようを言語化しようと、著者が膨大なエネルギーを割いています。もう一冊は、元信者との対談です。
この二冊の本について、このブログにもいつものように感想を書きますが、そのときはその本の内容について書くので、今日のような書き方になりません。
今日ここに書いたことは、それらの本を読みながら同時にわたし自身の記憶とマッチングした印象を言語化したものです。
言葉が浮かんだときの感覚は時間とともに薄れていってしまうので、先にここに書き残しておきます。