うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「勤労青年」の教養文化史  福間良明 著

「教養ブーム」という言葉があることを知り、それをきっかけに読みました。
昭和50年代・60年代のことを知りたかったわけではなかったのですが、教養という言葉自体、わたしがどうも使い慣れていません。そこに含まれる内容を認識できていなくて。

 

わたしはいまオンラインで読書会を再開させようと考えているのですが、かつて開催していた頃のことを覚えている人も少ないし、リアル開催とは違うため、コンセプトの伝えかたや設定の面で見直すべきことがあります。もちろん未来も見据えながら。
そして、その背景として教養ブームのようなものも知っておかなければいけないと、そんな考えに至っています。

 

そんな流れでこの本を読んでみたら、エピローグの中に「背後の力学の相違」という小見出しがありました。まさにこれだと思いました。
ヨガでもインド思想の勉強でもそうですが、「学び」の意欲に関わるとき、それを日本語で伝えようとする以上は、その日本的なところを忘れてはいけない。それを、ここ10年で実践しながらよく考えるようになっています。
インドでいろんな国・背景を持った人と英語でディスカッションをしながら体得したものを再現しようとすると、日本語コミュニケーション特有の引っかかりが無数にあって。
わたしは自分にヨーガの視点(ダルシャナ)を教えてくれたシャルマ先生は「君が理解したかどうかは、君が母国語で同じ言語を使う人に伝えることができたかで証明される」とおっしゃっていて、「意識は言語で、言語は意識だから」ということを伝えたかったのだろうと思うのです。

 


インターネットが普及したいまの時代は、学ぶという言いかたをしていても、実際は○○術としてハックしたいというニーズが大きく、わたしの Instargam にはヨガのワークショップ・養成講座・ティーチャートレーニングの広告がたくさん流れてきますが、「イメージ画像+ハックしたいニーズに向けたフレーズ」だけでバナーが構成されているものもあります。

 


「読書会」という名称も、言葉自体はありふれているけれど、ここ10年は特に若い世代(いま30代まで)の「朝活」の流れから広がった経緯があり、「自分はただ手をこまねいているだけの人とは違う」という意識を満たすリア充イベント的側面もあり、受け取られかたはいろいろです。

朝井リョウさんの小説『何者』の世界の延長のようなことですね。

 

これがわたしの世代(いま40代・50代)になると、30代までに定着しなかった自分の学びかたを踏まえて、「自分の無意識の思考の癖を知るため」「主観によるズレを補正するため」という目的を理解する人が人が増えてきます。

 

そして、さらにその上の世代、さらにさらに上の世代となると……。
これまでは正直、自分の世代のことまでしかわかりませんでした。それが、この本を読むことで少し見えてきました。
この本の後半「人生雑誌の成立と変容」という章に書かれていたマインドのなかにいくつか、自分が仮説として思っていたことがありました。
その背後をさらに理解するために、映画『キューポラのある街』を観ました。

 


わたしは少し前に、毛沢東の時代から中国で孔子が悪者扱いされるようになった歴史を学びましたが(参考)、日本の戦後史もこの切り口で見ると興味深いです。
戦後のことって、いま生きている高齢者のかたが大変だったという事実を受け止めるのがつらくて、自分が日常で触れる情報との関係性を追うのにも精神的負荷が高いんですよね。

それでつい「大変だった」ということにして、理解することを諦めがちになります。

 戦時期になると、『歎異抄』などのような日本主義的な古典が多く手に取られた一方、マルクス主義自由主義は抑え込まれた。そのことが結果的に、教養主義が戦後になって復活することにつながった。「自由主義マルクス主義的な教養が抑圧されたがゆえに日本は誤った戦争を始めてしまった」というロジックである。むろん、実態は必ずしもそうではなく、もともと共産主義自由主義に共感を抱いていた知識人の多くが、戦争を賛美し翼賛する文章をものしていた。しかし、敗戦は軍部や戦時の指導者層への批判を生み出し、彼らに抑え込まれていた(とされる)知識人や教養の威信を高めることになった。
(第1章 敗戦と農村の教養共同体/ノンエリートの教養への憧れ より)

最後の「彼らに抑え込まれていた(とされる)知識人や教養の威信を高めることになった」というのは今でもその新鮮さが変わらないように見えます。何度も蒸し返されて定着しているような。

 

また「仕事場以外の場所で学ぶこと」を美化するマインドが醸成された時代については、60年代の集団就職の実態を知ることでよりリアルに感じられました。

 地方農村部の新規中卒者たちは、地元の職業安定所や中学校から就職先を斡旋され、春になると教師に引率されて都市部の勤務先に赴いた。国鉄はそのための臨時列車を運行し、1963年には労働省都道府県、職業安定所、交通公社がタイアップするようになった。1964年にはピークを迎え、集団就職者は78,400人、専用列車はのべ3000本に達した。
(第2章 上京と「知的なもの」への憧憬/集団就職 より)

(読みやすくするために英数記載で引用しました)

この引用部分の少し後に、それでも大手の工場に就職できるのは家庭から通勤できる都市在住者だったと記載されています。まだ10代の働き手には、労務管理コストとして家庭での指導が期待できるほうが都合がよかったと。
同じ章で進学組と就職組の学生のかなりピリついた関係も伝えられており、乱闘事件の新聞記事の紹介もありました。

仕事のストレスを勉強の存在が癒してくれるにしても、この時代は10代がそれを求めていました。いま20代30代の人が朝活をやるのとはワケが違います。でも、根っこの心は同じなんじゃないかな。だって、まだまだ若いんだもの。

 

 

さて。
この本は第3章からおもしろくなります。
「人生雑誌の成立と変容」というタイトルで、以下の二つの雑誌を掘り下げています。

  • 1949年に山本茂實が中心になって設立した葦会から立ち上がった『葦』
  • 1952年に寺島文夫によって立ち上げられた『人生手帖』

山本茂實さんのお名前は、一年ちょっと前に映画『あゝ野麦峠』を観て、それをきっかけに知っていました。

これらの人生雑誌は、「同じ中学卒であっても知的関心が低い層とは違うのだ」という自己認識を持つ人々に支持されていたとあります。
一方で、出稿されている広告には就職で有利なスキルを身に付けるための通信講座があり、人格陶治や真理の探究を目指すために読まれている雑誌という体裁でありつつ、実際のところ、読者は「実利のための勉強」を望む一面もあったと。

 

そして人生雑誌に自分の投稿が掲載されることは「査読」を通過したということでもあり、読者の承認欲求と絶妙なマッチングが起こっていました。
そんな時代のニーズ・承認欲求のマグマを受け止めた人生雑誌が衰退を迎えたのは、以下のような高校進学率の変化の頃でした。

  • 1950年代半ば:50%程度
  • 1961年:62.3%
  • 1965年:70.7%
  • 1970年:82.1%

進学の問題が家計の問題というよりも、学力や選抜の問題に変わったと。
この背景が、上記の実数とともに第3章の「就職組的発想」の衰退 という項目で説明されています。

 

そして上記のような心のニーズが断片化し、中年文化と大衆教養主義へその住処を移し、昭和50年代の歴史ブームとなり、大河ドラマへ引き継がれていった。著者はそんなふうに時代を見ています。
しかもその理由に「参入障壁の低さ」があると。そこは「えええ? そーお?」と思いながら読みました。

 抽象的な思想・哲学・文学などは、理解し、味読するのに、時間的・精神的な忍耐を要する。
まだしも体力や時間に恵まれていた若いころに比べ、中高年になると、現場実務のみならず管理業務が重なり、精神的な負荷が増す。さらに休日も家族や親族と過ごすことが多いだけに、難解な人文書に向き合うことは、時間的にも精神的にも体力的にも容易ではない。「生」「真実」といった青春期の問題関心も、日常生活で労を重ね、また、良くも悪くも人生の見通しが定まってくるなかで、薄れてくるのは避け難かった。
(第3章 「参入障壁の低さ」より)

大河ドラマって勝手にものすごく昔からあったと思っていたのですが、1963年からなんですね。

わたしは人生の見通しが定まってくるからこそ、そこで投げやりにならないために「抽象的な思想・哲学・文学」を自然に求めるようになって、中年になっても変わりません。これは、本来10代〜30代でやっておくべきことをしてこなかっただけといえばそうですが、わたしと同世代の人って、同じような人が多いんじゃないかと思います。