うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

セラピスト 最相葉月 著

戦後のカウンセリング史と日本人同士のコミュニケーション特性、そしてここ30年くらいの心の病の流行と社会定義の変化まで振り返ることのできる、内容の濃いドキュメンタリーでした。


なかでも言葉と思考の関係性について話されている部分が興味深く、あとがきでこのように語られていました。

 言葉によって因果関係をつなぎ、物語をつくることで人は安住する。しかし、振り回され、身動きさせなくするのもまた言葉であり、物語である ━━。
 中井久夫のそんな言葉が取材中、頭を離れなかった。 それは、ノンフィクションといいながらも、自分の見立てやストーリーからはみ出るものを刈り取る行為を意図的に、あるいは無意識のうちにしていることを自覚していたからでもある。
(あとがき より)

思考の主体に自覚的になる時って、やっぱり「切り落としたもの」の存在を思う時なんだな、と思いながら読みました。

 
中井久夫さんが話されている以下の部分は、ヨガの練習・コミュニケーションでもよく似たことがあると思いました。

「絵はメタファー、喩えを使えるのがよいと、以前おっしゃっていましたね」
「ソーシャル・ポエトリーといって、絵を描いていると、たとえば、この鳥は羽をあたためていますね、といったメタファーが現れます。普通の会話ではメタファーはない。絵画は言語を助ける添え木のようなものなんですね。言語は因果律を秘めているでしょう。絵にはそれがないんです。だから治療に威圧感がない。絵が治療しているというよりも、因果律のないものを語ることがかなりいいと思っています」
(244ページ 逐語録<中> より)

わたしは準備運動のガイドをするとき、あまりヨガの場で聞かない喩えを使うようにしています。用語の因果律に縛られて「正しい動き」をしようとする人にありがちな “頭の硬い挙動” をリセットするのにメタファーが有効だから。

わたしはずっとその根拠を言語化できずにいたのだけど、それが見事にこの章で説明されていました。

 

この対話の続きで、中井久夫さんがこんなことを話されています。

 わたしの考えでは、妄想というのは統合失調症の人の専売特許ではなくて、自分との折り合いの悪い人に起こりやすいかなあ。ほかのことを考えるゆとりがないとか、結論をすぐ出さなきゃいけないというときです。
(245ページ 逐語録<中> より)

わたしは結論を急ぐと妄想にハマりやすくなる傾向があるので気をつけているのですが、因果律の縛りの話は、いま読んでいる「ヨーガ・ヴァーシシュタ」という本の中にも頻繁に出てきます。いつか切り出して掘り下げたいと思っています。

 


この本はカール・ロジャーズの唱えた傾聴カウンセリングと、言葉にできない部分を落とさず見ようとする箱庭療法・絵画療法それぞれの長所とリスクがわかりやすく書かれており、傾聴のカウンセリングが戦後の日本で流行した背景を知ることができました。
その後1965年に河合隼雄さんがスイスから持ち帰った箱庭療法が、カール・ロジャーズのカウンセリングに四苦八苦する日本の心理学者やカウンセラーたちに大きな関心をもって迎え入れられた(第五章冒頭)とありました。


この第五章の序盤で、山中康裕さんという方が、好きなものをうまく選べないことが統合失調症の特徴でもあるので、始めから「好きな絵を描いてください」とは言わないという話をされていた部分も、実感として気になりました。実際わたしにそういう面があるから。
たぶん好きな物を描けと言われたら描きやすい(説明しやすい)ものを「好き」ということにして描いて、好きなんですねと言われたら「はい」と答えながら心の中ではそうでもない。説明したいことや課題があれば描けるけれど、そうでないと描けない。

 

自分の心がわからない感じは、第八章「悩めない病」でさらに現実的な分析がされていました。
2000年以降、学生の相談が、問題解決のハウツーや正解を性急に求める学生と、漠然と不調を訴えて何が問題なのかが自覚できていない学生に二極化している、ということが書かれていました。後者は内面を言葉にする力が十分に育っていないとのことで、その少し前のページに「もやもやしている」とは言うけれど怒りなのか悲しみなのか嫉妬なのか、感情が分化していないと。

 

これについては、状況の捉え方に差を感じました。
ネガティブな感情の箱に入れないように保留しているだけで、社会のなかで穏やかな人格を纏って生きていこうとすれば、「もやもや」の箱にいったんいれておく感情の量が爆増するのは当たり前じゃないかと思うのです。協調性とソフトスキルが求められる社会になればなるほど、そうなるのが自然じゃないか。

どの組織に属しても、家庭であっても、感情を確定させることにリスクが多いんだもの。

 


どこかで自分の感情のありかを確かめておくことはしたほうがよいのかもしれないけれど、それを「言葉」でできる人はそんなに多くない気がします。そして、主体性が希薄な人にカール・ロジャーズのように「○○なんですね」と傾聴してもカウンセリングにならないというのもよくわかります。
だから多くの人が「メンター」を求めてオンラインサロンに入ったりするんじゃないかな。否定的な感情の主体を負うリスクの少ない場所が、まるでショッピングのように選んで買える。早口で言い切る演説のようなYoutubeがよく再生されるのも、感情の棚上げにとても都合がいい。

 

この本は集団心理の部分はほとんどなく、個人に対するセラピストの仕事が題材でしたが、共同幻想昭和天皇のような存在)を失った社会と心の歴史がとてもわかりやすく書かれていて、言語依存的な自分自身の状況が再認識できました。
いろんな人がちょっとずつ言葉以外の方法でコミュニケーションが取れて、自分の存在が小さくなりすぎたり大きくなりすぎたりしない、そういう場の多い社会になるとよいのですけどね。