うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

日本社会がオウムを生んだ 宮内勝典+高橋英利 著

作家の宮内勝典さんとオウム真理教を脱会した元信者・高橋英利さんの対話が記録されています。
時代の振り返りが興味深く、なかでも特に第三章で話されているやりとりは、わたしの経験と照らし合わせて過去30年前の日本社会の温度感が蘇りやすい内容でした。

寛容さを行使するために風変わりなものを認めようとする人間の盲点をつかれた。その感じが実にわかりやすく説明されています。


第三章でお二人が ”多種多様な価値”を認めあうことの中に危険性があった。認めることが無関心であるということにもなって、オウムの教義がおかしいことには気づけても、武装化を進めていることに気づけなかったという話をされていました。
当時の時代のムードを思い出しながら、なるほどと思いました。

 


オウム真理教が信者を増やしていった時代について、この本を読みながら学生時代に考えていたことを思い出しました。これは言葉を選ぶのが難しいのですが、当時わたしは “クオリティの差に関係なく同時におもしろがれることがカッコイイ”  みたいな風潮に、社会のむずかしさを感じていました。そのひとつとして覚えているのが「ダンス甲子園」です。
カッコよく美しいのはダントツでLLブラザーズなんだけど、そうでないものも同時におもしろがっていく構成についていけるか。当時わたしは中高生でしたが、自分が試されているようなイヤな感覚がありました。

 


オウム真理教の存在を認めていく流れにも、わたしはこれと同じようなものを感じていました。東京で真面目そうな大人が人前で奇妙な歌を歌ったりダンスをしているのをテレビで見て、その映像はあきらかに怖い。だけど大人にもいろいろあっていいのだと、それを理解できることが社会についていくということなのだろうと、漠然と自分のなかで違和感をクロージングする。そういう情報処理をしていました。
オウム真理教について、その感覚を少しだけ記憶しています。

 


ほかにも「まさか」という盲点をついてきたという点で、元信者の高橋さんがお話されている以下は、これはいまのわたしでも騙されると思いました。

説法で「私のシャクティパットを受ければドラッグなんかよりも早くクンダリーニが覚醒する」みたいなことを言っているので、まずそこでぼくはオウムは薬をやらないんだ、と。東洋医学もやっていて薬漬けの西洋医学を批判しているから、まったくそう思うじゃないですか。そうしたら実際にやっている。ものすごい薬漬けでしたよ。
(第三章より)

「私のシャクティパット」は信じないけど、「ドラッグなんかより」と言われたら、ああドラッグはやらないのねと、そのレトリックを見抜けない気がします。

 


第一章で作家の宮内さんが指摘している以下は、短い言葉なのに言語化がたいへん鮮やかです。

 あんな頭のいい秀才たちが、どうしてあれほど盲目的に麻原彰晃に帰依してしまったのか、みんな不思議がっています。でも、ぼくはわかるような気がする。真面目だからこそ、自分の理性のチェックをやましいことのように感じてしまう。麻原はそうした心理をよく知っていた。
(第一章より)

こんなにも短くわかりやすい言語化はないなと思いながら読みました。
わたしは "本格的なヨーガ哲学の講座" に「行かなければならない」とか「学ばなければならない」というマインドを持つ人のなかには、自分の理性のチェックをやましいことのように感じてしまう人がそれなりに含まれていると思っています。
講座を提供する側にも同じマインドがあって、無意識にそこを鉱脈として掘ってしまっている、そういう構造ってないだろうか。そんなことを思います。(この感じ伝わるかしら)

 

自分の理性の脆弱性の吐露って、小説や映画のような物語の中であれば、モノローグとして語られたり、ちょっとおかしな行動として現れること。
わたしは世代の近い人が主人公だった『すべて真夜中の恋人たち』や『コンビニ人間』を読んだときに、こういう小説を多くの人が読む社会になれば、狂ったカルト信仰は生まれにくくなるだろうと思いました。読むとしんどいから。
読む人によってはすごくいやな小説だけど、社会に根を張った状態で理性のチェックを起こさせるという点で、同時代の物語として重要な作品と感じました。

 

 

この本の中で元信者の高橋さんは、自分がその役割を与えられたらサリンを撒いていただろうと話されています。その心境の説明は、この本のなかで一番強く記憶に残る告白です。

もしそうなったとすれば、自分が撒く段階になって、自分が犯罪行為をしていることはおそらく認める。認めながら、それに対してすごい正統性のある感覚を、ぼくはたぶん生産していると思います。その時点で。
(第二章より)

高橋さんは言葉選びが細かく、ここでは「感覚を生産する」という言いかたをされています。
わたしはストックホルム症候群を”好意的な感覚の生産” だと思っているのですが、感覚を生産するための素材を日々集め、それらを使って自己正当化のための物語を必要とあらば構築できるように、自分の心を守るために、日々それをしている。わたしにはその実感があります。
この心のはたらき(日々それをしているという自覚)に意識的でないと、「生産していると思います。その時点で」という言いかたはできないと思うので、ここでの高橋さんの言葉選びに勇気を感じました。

 

 

わたしがこの本を読んでもっとも重要と思ったのは、以下の箇所です。

宮内さんの語る以下は、これまで海外で生活をしてきた(している)人も多く頷くところかと思います。

ぼくは旅をして、結局、自分がプログラミングされていることを嫌というほど思い知らされてばかりいた。たとえばアフリカを歩いているときだって、日本語でものを考えている。長いこと海外で暮らしてきたけれど、小説は日本語でしか書けない。プログラミングされている証拠ですね。それを解除することは人間にはできない。でも相対化することは可能だと思う。瞑想というのは本来そういうものなんじゃないかな。
(第三章より)

意識は言葉だから、結局は母語になる。
わたしは日本語の特性が自分の心の特性をつくっていることに気づいてから、その人特有のやさしい言い回しに触れたときに、その人の経験に興味がわく。そんな価値観へ変わってきました。その人個人が乗り越えてきた「相対化」の苦労を想像するからです。

そう、それなんだと思いながら読みました。
絶対化ではないんですよね。

 

思考停止の罠について、振り返りのきっかけをくれる本でした。