以前、恥ずかしがりなのに恥ずかしがりじゃない自分を掘って「はずかしい」の種類について書きましたが、今日は自己肯定感について書きます。
わたしは「自己肯定感」という言葉にあまり興味がありません。もともと「多くの人ができているのだから自分も大丈夫」とか「練習すればできる」とか「なんとかなる」と考えやすく、ちょっと危機管理能力に欠けているところがあります。なので楽観的であることと自己肯定感が高いという状態の境界がよくわかりません。
ただしこれは、個人単位でものごとに立ち向かう場合だけ。
ここからがややこしいのですが、わたしは枠組みの中に入ると「自分はほんとうは居ないほうがよいのだろう」とみなす思考をよくします。わたしが居ないほうがこの家庭は楽しくなるだろう、この学級は楽しくなるだろうなどと想像しながら、所属させてもらえてありがたいという感謝もしていない。そういう矛盾がデフォルト。家庭や学校に限らず、所属する組織に対してそう考えやすい。
就職が難しい世代であり続けるせいか、社会に出てからのほうが「所属させてもらえてありがたい」という気持ちが自然に起こりやすく、自分の内と外のバランスもとりやすくなりました。
自己肯定感というのは、自分はできる・大丈夫と思えることや、自己の存在そのままを肯定できることという意味のようですが、わたし個人の例を掘り下げると、ひとりでなにかにチャレンジしたり努力できると思える点では自己肯定感が高いけれど、枠組みの中に入ると自己肯定感が低くなる。
これって、ざっくり高い低いで語るものじゃないんじゃないかという気がしています。
わたしは自己のアウトライン(体)が3つあると思っています(以前書きました)。
上記は、ヨガをする人たちが「オーム シャーンティ シャーンティ シャーンティヒー」と唱えるシャーンティが3つである意味を日本社会バージョンで書き換えたもので、本来の三つは以下です。(さらに詳しい説明はこちら)
- 内なるもの
- 外なるもの
- 神聖なもの
わたしの自己肯定感は、「自己&自己(内なるもの)」「自己&神や宇宙(神聖なもの)」においては低くないのだけど「自己&他者(外なるもの)」のときに低くなる感じがする。
この「感じがする」が幻想なのだとしたら、なにも理由探しをする必要はありません。わたしにとって自己肯定感が低くなっている瞬間は、「自分はほんとうは居ないほうがよいのだろう」とみなす思考の裏付けとなる記憶をこねくり回しているときです。
裏付けを記憶に頼っている。それは自分のハードディスクの中にしかない。
ここは、なにげに重要です。裏付けとなる記憶を共有しているはずの相手は、記憶を自分の都合のいいように書き換えています。
それはヒトに備えられた脳の機能で、自分も同じ機能を備えています。記憶を頼りにした戦いほど不毛なものはないので、裁判では証拠を集めます。公文書だって書き換えられてしまう。そのくらい、書き換えたい欲望を道徳心や理性で制御するのはむずかしい。
「自己肯定感」とか「承認欲求」とか、世間でよく使われる言葉が登場すると、わたしは何年もかけて自分の場合はどうかなと考えてみるのですが、「自己肯定感」についてはこんな感じです。