わたしがブログに母親との海外旅行記を書いていると、同世代の人から「うちは絶対無理っ!」と、勢いたっぷりにお話をされることがあります。
それもなんかわかるし、そうだろうなと思います。
まだまだ足腰が元気な人であっても、意思がなかったり、ありすぎてもむずかしいでしょう。(意思がありすぎるように見えるのは、「意思がない」のだとも思うので)
そもそも会話の時点でむずかしい。
相手の認識や前提に合わせたり、相手が書き換えている記憶や前提に合わせる。正しさにこだわらない。そういう掛け捨ての会話を調整として行う関係性って、きっかけがないと作れないし、お互いが修練していくものだから。
わたしの場合は、この年末年始の旅行で母親から聞いた話に「え、そうだったっけ・・・」というものがけっこうあって、以下のことを認識して驚きました。
わたしはどうも、学生時代からアルバイトをして自分のやりたいことをやっていたようです。運転免許取得も歯列矯正も、自分で稼いだお金でやったものらしくて。
それを約30年経ってから知りました。知ったというのはおかしな話だけど、わたしがいつの間にか自分の記憶を書き換えていました。
いつからか「車の免許を取らせてもらったのにバイクにしか乗っていなくて、しかも事故ったりしてるし、家の車庫も壊したし、大人になってから歯の矯正なんてして、ただでさえ大学の学費がかかるのに親に負担をかけた」と思っていました。
なのに親が「払っていない」と言っていて、狐につままれたような気持ちです。先にわたしに痴呆がやってきたみたい。
わたしが認識を書き換えたにしても、どこかに少しは「本当」があったんじゃないか。
親の負担は金銭的なことではなく別なことにあって、手持ちの材料だけであとで物語をこしらえていたのではないか。自分の置かれている不可解な状況を理解するために、人はときどき物語の力を借りようとするから。
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心の使いかたはわたしの気質によるもので、同じ性質がわたしを外向的にし、地元から飛び出させたとも思ってます。
忙しい親に車で迎えに来てもらわなければいけないほど雪深い場所で生活を続けることがイメージできず、その思考がわたしを都会派にました。免許を取っても車を持ちたいと思わないのもわたしの気質。バイクでじゅうぶんなのでした。
親と長い時間を過ごすには、
どんなことも
自分の気質が主で、自分で選んだのだという
意思と気持ちを持てないとしんどい。
たぶん、こういうことなんじゃないかと思います。
他人の記憶を訂正するのは無理です。自分の記憶もあやしいものです。
他人の脳のメモリーは外部から書き換えることができません。
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たぶん誰もが、相手に対して自分と同じ文脈の記憶を共有する存在であってほしいと思っているだろうと思います。だけど脳って、各自が処理をするんです。当たり前ですけど。
わたしは各自が記憶を書き換えてしまうとわかっていても、それでもたまに同じ景色を見て思い出を作りたくなります。