うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

中年の成長話を聞くのはとても楽しい

先日、ヨガクラスの前にちょっと面白い会話がありました。
なんの流れからか忘れたのですが、最近「神話」を読むようになりましたという人がいて、ギリシャ神話を読まれているそう。

わたしも「神話」というのを読むようになったのは、ヨガを始めてからなんです、という話になりました。

 


わたしは中編・長編の小説を読めるようになったのが30代後半からで、神話はもう少し後かな。詩はさらにあとです。詩はとにかく意味がわからなくて。
神話も詩も、興味のあるところ(=インドや西遊記)を入り口に、少しずつ近づいていけたというか、ここ数年で、やっと文字から絵や心情が浮かぶようになりました。

西遊記は子供向けの本から大人向けの本へ移っていくと、漢詩の部分が増えます。

 


ギリシャ神話は読んだことがなく、その話をしてくださった人に「プラネタリウムの元ネタみたいなやつのことですか?」と訊ねたら、近くにいた人が「たぶんそれであってる」と、ざっくり肯定してくださいました(笑)。
まだまだこれから知ること、教えてもらえることがあるというのは、楽しいことです。

 

 

わたしは子供の頃、文字を読んでいても「自分がなにをしているのかわからない」と思っていました。
レモンをがりりと噛んだというのを見て「昔のレモンは皮がいまよりも固かったのか」「なんで切ってあげないのか」と、そこが気になってしまう。詩を書く側の人の気持ち(詠嘆みたいな心の機能)が自分に備わっておらず、この人はなんでレモンのことだけ話すのか。その前にごはんはどうなってるの? 先にごはんが気になる。と、自分基準でしか想像ができません。
とにかく感受性に奥行きのない、想像をはるかに超える単純さで生きてきました。

 

 

「詩」はメロディーがついているものと思い込んでいた、というのもあります。
音の情報が同時にないと、その心がつかめない。せめて音色(楽器)の情報だけでも欲しい。前奏がないままいきなり始まると戸惑います。
文字だけになると、自分の知っている固有名詞や、その背景の絵が浮かぶものしか理解できない。その鈍さがわたしのデフォルトでした。
こういう人でも楽しめたから『サラダ記念日』は大ヒットしたのでしょう。ちがうかな。

 

 

中年になってから詩が読めるようになったのは、経験によっていろいろな背景の参照データが増え、それが文字情報を補強してくれるようになったからではないかと推測しています。脳内フリー素材が溜まった感じ。

 

 

そんな話をうだうだ話していたら、「わたしの文章力は小学生の頃がピークでした」「わたしも〜」という人々がいて、個人の感覚というのはおもしろいものだなと思いました。
インプットとアウトプットの中間にあるものって可視化できないから、わたしは一緒に身体を動かす人とのこういう雑談をおおいに楽しみます。


倫理観・道徳観・宗教観は、人それぞれ。直接的に人生経験を語るのは野暮。でも、だからと言ってあたりさわりのない話だけしていてもつまらないし、頭と心がボケてしまう。
こういう話をちょこっと楽しく交わせる瞬間に、わたしはシャーンティを感じます。

 

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これは2月21日の、着水90日目の我が家のヒヤシンスです。

今はさらにとんでもない三者三様の変化を遂げているのですが、成長過程の写真をお披露目する場所がないので、ここでサムネイルがわりに使うことにしました。

見た目はほのぼのした存在感ですが、顔を近づけると、ものすごい大人の女の芳香に包まれます。「球根のなかにそれぞれが経験を蓄えてきたのね。あなたたち、どんな恋をしてきたの?」と、ひとりひとり訊いてみたくなります。

人じゃないですけどね。