ガンディーは教科書に載るような人物だったので、子どもの頃から名前と顔だけ知っていました。教科書の脳内発音イメージで、いまだに頭の中では「ガンジー」と発音しています。わたしは「植民地」「独立」がよくわからないまま大人になりました。
その後、わたしには何度も様々な視点でガンディーを追いかけることになる、いくつかのタイミングがありました。日本語を話すインド人と定期的に話すようになってから、インドの人が抱いている「大切なものはイギリスに持っていかれた」という気持ちを身近なこととして想像するようになりました。
そこから人物史へ関心が広がりました。わたしはもともと聖人視される人物に懐疑的で斜めに構える癖があるため、一時期はガンディーの複雑な部分(ダークサイドと見られがち)に意識が向きました。
そしてここまでのことと並行して、バガヴァッド・ギーターを読むようになりました。
その後で、以下の本を読んだらガンディーの見え方ががらりと変わりました。あまりの衝撃で、二度も感想を書いています。
その後、よりその人物像に近づきたくなり、アーメダバードとムンバイの博物館へ行きました。そこで買ってきたDVDを、何度も繰り返し観ました。そして一年くらいかけて自伝を読みました。一年もかかったのは、とにかく濃いため。
この自伝は、序盤で回想される性欲の吐露からいきなり自己開示してきます。自分で書き残す以上はとことんさらけ出さなきゃ意味がないというスタンスで書かれているのですが、そこまで書くかという内容です。さらにすごいのは、その時このように考えたということをつぶさに記録していることです。しかも恨み節なし。
ひどい目に遭ったことも遭わせたことも書いていて、自分の人生を英雄化して回想するようなことをしない。恨まないために考えたことも書き残し、ガンディーは妻や子供から見たら「それはいくらなんでもほどがある」としか言いようのないひどいこともたくさんしていて、それも自分で書いている。
あまりにも自伝の内容がすごすぎて感想を書くことができない。そんなときに、この本を読みました。
そうしたら
そう! わたしが打ちのめされたり唸ったり悶えたりするのは
ガンディーの、こういうところ!!!
という部分が、わかりやすく整理して書かれていました。
「なぜいま、中年になってからのいま、こんなにも支えになるのがガンディーなのか」ということまで説明され、数年にわたる壮大なセラピーを受け終えたような気持ちになりました。
自分で言葉を掘り出すことができないままになっていたことが、こんなふうに解説されていました。
人間は「あなたじゃなくって、誰でもいいんだよ」という代替可能性を突きつけられると、存在の根拠が揺らいでしまいます。自分が意味ある存在として社会の中に位置づけられているという実感がないと、私たちは「生きることの底」が抜けてしまいます。
だからこそ、人々の関係性が希薄化し、人々の承認の場が失われた流動的社会では、「社会的包摂」の機能を再構築する必要があります。人々の「居場所」や「人間交際の場」を作り出していく必要があります。
(第二章 「非暴力」「不服従」への道/社会的包摂と相互扶助 より)
バガヴァッド・ギーターというインドの聖典で説かれている「ダルマ」について思考をめぐらせるときに必ず立ち上がってくる避けられない問いに向き合うときの気持ちは、まさにこういうことなんですよね…。
ほかにも、それ! それなの! と思った解説が随所にありました。いくつか紹介します。
ガンディーの政治手法から抽出できる、もう一つ大きなことがあります。それは、誰にでも理解できる「わかりやすさ」ということです。ガンディーのやり方には、老若男女を問わず、識字能力がない人にまで訴える力がありました。と言いながら、重要なのは、そのわかりやすさが「単純化」ではなかったところだと思います。
(第一章 歩く・食べない・回す/喚起する力 より)
ガンディーの手法の特徴の一つは、このように前進と妥協を交互に繰り返すところにあります。というよりも、憎しみの念を持続させないのです。敵対の状況を長く続けず、つねに調和と仲裁を探っていきます。それは、政治家としてのガンディーの面白いところでもあるのですが、急進派の人々の目には、いかにも手ぬるく、まだるっこしく見える点でもありました。
(第二章 「非暴力」「不服従」への道/独立機運の高まり より)
日本の政治家がひとつの問題への怒りを煽り立てて先鋭化させるやりかたを見るとき、わたしは「この憎しみのエネルギーによる団結は、問題が解決したときにどうなるのだろう」と考えることがよくあります。ガンディーはいまふうにいうと「それはサステナブルか」というところを最優先している。もともと人生を脚色したり自己を英雄視しようとしない、ド反省からはじまった人。
その背景をガンディーの自伝で読んでかなり驚き、あまりに驚きすぎて感想を書けずにいたのですが、この本ではそこも解説されていました。
ガンディーの自伝の中には、「自分は性欲に盲目であった」とか、「性欲に執着していた」とかいう言葉が、何度も出てくるのですが、最も強烈なのは、「自分は妻を性交の器だと思っていた」というものでしょう。
自伝では、イギリス留学時代に、浮気心を抱いたことも正直に告白しています。彼は既婚者であるにもかかわらず独身であると偽り、若い女性と散歩したりおしゃべりしたりすることを楽しみました。
(第三章 禁欲主義の矛盾/性欲との葛藤 より)
紳士的でこじゃれたことなんて、言えないんだわ俺。というところからはじまっている。ガンディーとその妻は幼児婚だったので、それはそれはもうすごいときに一緒に住んで、妻といちゃつきたい欲求を抑えられずに妻のいる部屋に戻っていたそのときに、お父様が死のときを迎えた。こういう、ものすごい背徳の記憶が根本にあります。
ガンディーの複雑な部分は、何度もその考えかたを探っていくことで見えてくるのですが、アウトカーストとの関わり方についてのこの推察と解説は「こんなの待ってた」という内容でした。
ガンディーは、アウトカーストへの差別は、ヒンドゥーの本質ではないと認識していました。それは後世に作られた「腐り切った」もので、一刻も早く取り除かなければならないものでした。
しかし、ガンディーはカーストそのものを否定していません。彼は、『マヌ法典』などに書かれた「ヴァルナ」を人間の役割原理として肯定しています。しかし、「ジャーティ」の存在やアウトカーストの存在、それに伴う差別については厳しく批判しています。
このあたりが、ガンディーのカースト論を複雑にしている部分です。
さて、イギリスの提示した法案は、インドに新しい自治政府ができた場合、これまで参政権を剥奪されていたアウトカーストに、一定の選挙区と議席を与えるというものでした。これは一見、正論のように見えますが、イギリスはヒンドゥー内部のカーストとアウトカーストの溝に注目して、その対立を深めるため、アウトカーストの指導者的存在であったアンベードカル(1891~1958)と接触し、新しい法案を打ち出してきたのです。イギリスの得意なインド分断作戦の一つでした。
ガンディーの主張は「神の前で、すべての人は平等でなければならない」というものでしたが、法案には断固として反対しました。なぜなら、ガンディーの意図はもっと本質的なところにあって、もし、不可触民を特別扱いする法律を作ってしまったら、かえって忌まわしい差別を固定化することになる、と考えたのです。ガンディーは自分の主張が通るまで死ぬまで断食すると言って抵抗しました。
(第二章 「非暴力」「不服従」への道/「神の子」たち より)
わたしも一時期すっかり、インド分断作戦のひとつに乗るような解釈をしてアンベードカルに夢中になっている時期がありました。
ガンディーについて、それでも少しずつ近づいていきたかったのは、わたしがインドの言葉を読み書きしたり辞書を引けるようになってからでした。そのあとで以下の本を読み、以来わたしはこの本の著者の解説をとても信頼しています。
上記の最後のほうで引用している部分は、日本語にはないインドの言語のありようをとても上手に解説してくださっています。
そしてこの本にも、同じ視点での解説がありました。
ガンディーは、ヒンディー語の「イティハース」の語源が「このようになった」という意味であることに注目しています。これは非常に重要な視点です。
ガンディーにとって、「歴史」とは過去の特殊な出来事の羅列などではありません。私たちが「いま」「ここで」「このように」生きている状況を暗黙のうちに導いてきたものこそが「歴史」であり、我々の言語や思考様式、良識、伝統など日常生活を支えるおおよそのものは、「歴史」が習慣を媒介として運んできた英知に他なりません。
しかし、行為の基礎としている習慣を、私たちは日常の中で殊更に意識することはありません。それは、まさに「自然のもの」として、我々の一挙一投足、あらゆる振る舞いの中に組み込まれています。
「このようになった」ことを導いたものは、まさに「歴史」=「イティハース」です。「歴史」は現在の我々が存立する根拠です。「歴史」なしでは、我々は「このように」なっていません。そして、「このようになった」ことの沈黙のプロセスの中に、「サッティヤー」(=真理)とそれに基づく行為の数々は潜んでいると、ガンディーは言います。
(第二章 「非暴力」「不服従」への道/サッティヤーグラハ より)
言葉のありようは意識のありようです。
「イティハース」については、森本達雄さん(タゴールの訳をめちゃくちゃすてきな日本語にしてくださる)も以下のように解説されています。
インドに西洋の歴史の観念が導入されるまでは、この国には英語の「歴史(ヒストリー)」に相当する言葉はなかった。そこでヒンドゥーは、「イティハーサ」をもってこれにあてたが、この語の本義は「かくありき(実はこういうことだった)」であり、名詞としてはむしろ、伝記や物語、とりわけ二大叙事詩『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』を意味した。ここには、過去の事柄を正確に記録し研究するといった、いわゆる歴史意識はみあたらない。
(「ヒンドゥー教 ― インドの聖と俗」森本達雄 著 / 66ページ「ヒンドゥーの歴史観」より)
インド人のあのテキトーさも、こういうところに由来している気がする…。
最後に、この著者の説明のわかりやすさが際立っていた箇所を紹介します。アドヴァイタについて。
「不二一元論」とは、世の中の命やモノ、事象は見た目は違うけれども、結局はすべて一つの同じものであるという考え方です。ここでガンディーは、すべての生命が「一元」であると述べています。
私たちは、つい、私は「私の意志」で生きていると思ってしまいがちですが、ガンディーに言わせるとそうではありません。私が命を生きているのではなく、命が「私という現象」を生きているのです。すなわち、命というのは個人の持ち物ではなく、たまたま今、私という姿をもって現れているだけだということです。これは、いわゆる近代的な自我の考えかたとは対極的なもので、「生かされている」というのとも、また少し違います。
命がすべてつながっているとすると、他の命を傷つけると、自分の命も傷つけることになります。自分を傷つけると、他の命も傷つけることになります。だから、人を殺してはいけないし、自分を傷つけてはいけないのです。ガンディーの中では、非暴力も、動物の肉やミルクを食べないという菜食主義も、すべてここに連動しているのです。
(第四章 命が私を生きている/なぜ殺してはいけないか より)
この文字数で、むずかしい言葉ぬきに、ほんとうにわかりやすく説明してくださる。
ガンジーの伝記はなかなかのボリュームなのですが、この本はその要素をものすごくうまく抜き出して解説されています。
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