少し前に読んだ「女盗賊プーラン」の社会背景が気になって読みました。著者とプーランの対話が付録に収められています。
資料にはウッタル・プラデーシュ州のカーストの人口構成比の表(1931年の統計)も収められており、プーランの属するカーストが決して下位カーストではないことも説明されていました。プーランを強姦した人たちのカーストが想像以上に上位。これには驚きました。
社会の最も下層の人々よりも、上層に位置するとされる者からダコイトが出ており、ブラーフマンからもかなりな割合でダコイトが生まれているという記述(23ページ)のほか、終盤の章にはさらに具体的な説明がありました。
盗賊となったプーラン・デーヴィーが最初に加わった盗賊団の首領は、上層カーストのタクールに属していた。彼女自身も、非常に貧しい農家の生まれで、下層カーストとして差別されたが、実は、最下層の身分として差別されたSC/STでもDNTでもなかった。彼女と仲間は、十九七〇年代後半から台頭して優先的な保護政策の法的な保障を獲得した、中から下のカーストでもっとも人口の多い「他の後進諸階級(Other Backword Classes 略してOBC)」に属していた。
(P248 補論 盗賊はなぜ国家の敵になったか より)
この章では、違法な世界でも結局人脈がモノをいうので、盗賊の世界でも最下層では出世の余地がないと書かれていました。
著者が実際に会って話したプーランは、こんな人物だったようです。
ドゥルガー女神を語りつつ、机や棚にブッダの像があり、壁にはアンベトカルの似顔絵がかかっている。けれども同時に、核爆弾は持つべきだと言い、戦争をしてパキスタンを敗北させようと考える。また、BSJの強力な女性指導者であるマヤワティについては、二回目のインタビューで発言しているが、けっして女性を助ける女性の代表だとは考えていない。こうしたさまざまな信仰や思考の混在こそが、プーランのおもしろさであった。
(P301 付録 より)
BSJ(Bahujan Samaj Party)は政党の名称で、マヤワティは最下層カーストからその党の党首になった女性です。
巻末の対話(通訳と著者の他にも茶々を入れる人が登場する)を読むと、プーランは識字教育で女性も自分の権利を知るようになると信じているようでした。対話の内容を読んでいると、周囲の信用できる人の考えがごちゃまぜで組み合わさって理念になっているように見え、「自分の権利を知る」ということもまだ漠然とした概念なのではないかと思いました。
日本人はほとんど識字をしているけれど、権利について書かれた文章を読んでも、それが自分にどのように当てはまるかを理解するのは簡単じゃなかったりする。インドもそこは、そうなんじゃないだろうか。
文字が読めたとしても、これはこう解釈するのだこういう意味だと圧をかけられたら、プーランが警察の横暴を信じてしまったように、権利を自分のものとして使うのはむずかしそうな気がします。
この本はインド社会の統治の歴史と併せてダコイト(盗賊・浪人)のあり方が説明されているので、植民地時代からの歴史について犯罪法を通して知ることができます。
なかでも、イギリス人から見たインドの不可思議な点や理解しずらかったという以下のことが印象に残りました。
- イギリスの軍人や役人から見てインドの犯罪はミステリーのように神秘的で独特。合法か違法が簡単には白黒つけられない。その典型的な事例が「サティー」だった。(P225)
- サティーは1829年にベンティンク総督の下で法的に禁止されたが、現地エリートからの反発によって国家的な「黙認の余地」として容認する結果になった。(P242)/ ブラーフマンの方に軍配が上がり、禁止法は有名無実なものに変えられた。(P226)
- 倒れた木が夜の間にもう一度自力で立ち上がったとか、枯れたはずのマンゴーの木が蘇ったなど、奇跡のご利益話がガンディー(1869年〜1948年)にもあった。(P146)
- 1952年に、やっとインド全国一斉に犯罪部族法が廃止された。(P246)
時代遅れの東インド会社が自由主義のスローガンを振りかざして帝国を拡大した十九世紀前半のイギリス権力と、帝都カルカッタにヴィクトリア記念博物館を建設し、その中心に女王の彫像を据えた十九世紀末のイギリス権力との間には、一世紀近い時間の隔たりだけでなく、植民地における近代国家の建設というプロジェクトの完成前と後という、全く対照的な状況があった。それはまた、「法」を植民地進出の攻撃的な武器として使った時代と、「法」を国家の安定的な制度として使った時代との違いでもあった。
(P135 第三章 植民地国家と盗賊 より)
ウォーレン・ヘースティングス(1732年〜1818年・英領インドの初代総督)は、統治の方法をイギリス人の部下(東インド会社の会社員)を信用するよりも現地の人に委ねるほうがいいと判断したそうで、その説明のあとに以下の説明がありました。
法的な「イギリス化」を制約するかのように、ヘースティングス総督は、現地に根付いてきた法の重要性を強調し、多様性を持つヒンドゥー法を学び、イスラーム法を受け継いでいく必要があると考えていた。
(P187 補論 盗賊はなぜ国家の敵になったか より)
やり手!
インドの謎の人々や宗教的な慣習へのイギリス人から見た戸惑いは、計り知れません。
わたしも初めて旅行でサドゥーがたくさんいる場所へ行った時には、さっぱり意味がわかりませんでした。
この本には、サンニャーシと呼ばれる人の説明もありました。
ムガール帝国末期の十八世紀後半に新しく生まれた諸国が兵士を雇用し、「移動する人々」の舞台が一時的に拡大した。その後イギリスが諸王国を滅ぼし失業が起こり、東インド会社軍にも雇われなかった人が野に放たれた。
(P220 補論 盗賊はなぜ国家の敵になったか より)
十九世紀前半のイギリスは、インド農村地帯の盗賊や放浪者のような犯罪に強い関心を抱いた。ピンダーリー、サンニヤーシン(sannyasin)、バンジャーラー(banjara)、ファキール(faqir)など、さまざまに移動する人々の集団で、しかも宗教的な衣を被っている人々が、イギリス人にはとくに神懸かって見えたからである。こうした人々が、丘陵を放浪し、物乞い・強盗・強請などを行った。
イスラームのファキールやヒンドゥーのサドゥー(Sadhu)のような得体の知れない修道僧が放浪していることについて、新しい統治者が警戒感を抱いたとしても不思議ではなかった。このように動き回る人たちは、「中心的な都市と都市の間をつなぐ交通や交易のルート」を誰が「コントロールするのかを巡って」、現実に「イギリス人と競合していた」からである。いいかえれば、彼らは、イギリス人の下での治安と経済活動の自由の保障が完成されていないことを示す存在だった。
(P 67 第二章 植民地占領と盗賊 より)
ここからそれぞれの呼ばれ方の人々の解説があったのですが、サンニャーシン(サーンシャー)については、以下のような解説がありました。
「ジャート族の詩人」とも呼ばれる、歌や踊りなど豊かな芸を身につけた人々だった。
(中略)
招く領主や地主が気前のよい場合には、牛を一頭もらったりしたという。ただし、何かの事情で村人がそのような「礼節」を欠かすと、サーンシャーはその家にさまざまな呪いをかけ、悪運をもたらすと信じられていた。
したがって、同じ武装勢力と言っても、サーンシャーは、ピンダーリーのような職業軍人ではなく、後から述べるような「山の人々」としてのバンジャーラーと同じように、森に暮らす遊牧民的な人々だったと言える。
イギリスやフランスに植民地化されたアジアの国の歴史の中でも、やっぱり英国領インドの話は、なんでそんなことができたのかと思う。あの国の人たちを、イギリス人たちはどう解釈したのか。
この本は表紙がプーランの写真ですが、盗賊とその存在のあり方、法と統治の変遷を追うことでインドを理解しようとする本でした。
- 作者:竹中 千春
- 発売日: 2010/10/23
- メディア: 単行本