うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

愛するということ エーリッヒ・フロム著 / 鈴木晶(翻訳)

もっと早く読みたかったと思うと同時に、いま読んだからよかったのだとも思う。自分の根底に影響を与える本は、いつもこんな感想になります。

この本の原題は「The Art of Loving」。愛するということは技術だと言い切ります。これはヨガを「The Art of Living」というのと似ていて、「ヨガをしているのにやさしくなれない」と、ときに自己を省みる人に技術を教えてくれる、やさしい本。物事に対して、○○なんてしたって意味がないとスねてる人にはパンチが強すぎる本かもしれないけれど、それでもやさしい本。

 

愛は責任だという論理はインドの哲学と似ていて、神への愛を解説する章ではラーマーヌジャの猫の道・猿の道を想起させます。それを具体的に現代に落とし込んできます。以下いずれも、第2章 愛の理論「e.神への愛」から。

 多神教一神教かにかかわらず、神を崇拝するすべての宗教において、神は最高の価値、最高の善の象徴である。したがって、神をどのようなものとして捉えるかは、その人が何を最高善と考えているかによって異なる。それゆえ、神の概念を理解するためにはまず、神を崇拝する人間の性格構造を分析する必要がある。

 人間の進化は、母親中心的な社会構造から父親中心的なそれへと移行し、宗教もまた同じ道をたどったので、愛の成熟過程は、おもに父権的な宗教の発達のなかに跡づけることができる。

 わたしはたまに筋トレのように「二人で話すのはしんどいなと思う人が、ものすごくマイナーな同じものを好きだったら…」とか「ものすごく単価のよい仕事が、社会の格差をさらに広げることになるものだったら…」というような仮定題材を設定して自分にその後の展開を問うてみたりするのですが、この本はそういう迫りかたに近いやりかたで「神の概念」の分解を行っていきます。この、両足首を掴んで「聞け」と言ってくるかのようなやりかたはまるでスワミ・ヴィヴェーカーナンダ。


著者は「第3章 愛と現代西洋社会におけるその崩壊」で以下の問いをわたしに突きつけてきました。以下はわたしなりの言語化

 

 人は信じたいものを信じるけれど、それを「愛」ということにしたまま、あなたはこの先も生きていく?
 多くの人が漠然と信じたいもので世論を形成していく社会が共有する「愛の物語」の中で与えられた配役で、あなたはこの先も生きていける?
 あなたはそのシナリオを、どうやって信じる?

 

この本のすごいところは、この次の章から著者がグルに変わること。
ベスト・キッドでいうミスター・ミヤギ、スター・ウォーズでいうマスター・ヨーガの登場です。ぎゃーーー! 第4章のタイトルはずばり「愛の練習」です。
以下エーリッヒ・フロム・グルジの言葉を引用します。

「気分が乗っている」ときにだけやるのでは、楽しい趣味にはなりうるかもしれないが、そんなやり方では絶対にその技術を習得することはできない。

集中力を身につけるためには、くだらない会話、つまり純粋な会話ではない会話をできるだけ避けることが大事だ。

変化に気づくことと、手近にある理屈にとびついてそれを安易に合理化しないことである。

「信じる」という問題について考える前に、理にかなった信念と根拠のない信念とを区別しなければならない。私のいう根拠のない信念とは、道理にかなわぬ権威への服従にもとづいた、(ある人物や理念への)信仰のことである。それにたいし、理にかなった信念とは、自分自身の思考や感情の経験にもとづいた確信である。

自分自身にたいする信念は、他人にたいして約束ができるための必要条件である。

安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、信念をもつことはできない。

 この本のすばらしいところは、練習の終盤で具体的な思考の練習方法を示してくれるところです。「教育と洗脳のちがい」について書いている本ともいえ内容なので、勇気を出して手にしてみてもよいかもしれません。(親族も含め)他者に洗脳を「された」と思っている人や、それをアイデンティティの拠り所としている人には、自己を立て直す・立ち上げる契機になるかもしれません。

 

▼ありがたいことにKindle版もあります。手元においておきたいタイプの本です

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

 

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