うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

イスラームの心(原理の説明部分)

以前紹介した「イスラームの心」の前半は、「日本人とイスラーム」「イスラームの原理性」という章で構成されています。これが、ヨーガ・仏教学習者にとてもわかりやすい。
これまでわたしはインド寄りに傾いた学び方をしてきたので、「啓示宗教」としてくくられるイスラームキリスト教ユダヤ教の概念すらわかっていませんでした。わからないなりにイスラームの教えに触れながら、「なんだか社会規模で大乗仏教のようなスタイル」と感じていました。


さて。この本には、たとえに孫悟空唯円が出てきます。イスラームの原理性についてこんなふうに説明してくれて、なんだかうれしくなるような、不思議な楽しみに包まれながら読みました。
著者さんのスタンスとして、「そうじゃなくてさ」と思う学術理解の方面があったようで、『イスラーム=「イワシの頭」論者』とか、『「真理はひとつ」の人々は〜』などの訴えが織り混ざっているのですが、そこの文章をあまり「むずかしい」と受けとらず読んだらいい。イスラームキリスト教、仏教の立ち位置が感覚的に学べる本として、特に仏教が多少わかる人には良書と思います。何箇所か紹介します。

<38ページ 三つの姉妹宗教 より>
 ユダヤ教預言者モーゼは、神の唯一性を認めるばかりでなく、神の定めた律法をも同時に尊守する必要を信徒たちに説いている。この段階において信者は、形而上的真理を認めるばかりでなく、具体的な行動の規範の体系をも受け入れているのである。神と人との精神的関わりという垂直的なアスペクトと、信者が共同体内で守るべき律法という水平的アスペクトとが渾然一体となり、整備されてできあがったのがユダヤ教である。ただしこの宗教の信徒たちの問題は、彼らが受け入れた教えが、自分たちにだけ適用されると信じこんだ点にあった。いわゆるユダヤ教選民思想は、ユダヤの民を他と区別する点において、たしかに小乗的であり、いまひとつ普遍性を欠いていた。唯一なる神は、何を根拠にユダヤの民を他のアダムの裔と区別するのであろうか。


(中略)


アガペー、普遍的な愛を強調するキリスト教は、たしかに神の福音をユダヤの民といった特定の民のものではなく、全人類に開放した点でより普遍的な原理を提供しているのである。しかし彼の教えに従う人々にも問題がないわけではなかった。それは預言者の伝統からすれば破格の、イエス・キリストの格上げである。


(中略)


とにかくこれによって神の超越性はいちじるしく不透明になり、その影響は微妙にキリスト教の中に足跡を残しているといわれる。これを比喩的にいえば、釈迦を個人的に崇拝するあまり、仏教の教えそのものを小乗的にしてしまった釈迦の近弟子たちの傾向と類似している、とでもいいうるであろうか。

「キリストの格上げ」「釈迦の過剰な神格化」など、ストンと落ちてきますよね。「格上げ」の感情がどこからやってくるのかというところまでとことん斬っていくアッラーは、まるで遠山の金さんのよう。お天道様が見てる。

<44ページ 他宗教との違いは何か より>
キリスト教においては、信者と神の絆を媒介するものとしての聖職者の存在が認められた。信者の信仰は、特定のアスペクトに関して、彼らの媒介によりその対象である神へとつながれる形式をとっていたが、この形式は、聖職者にある種の特権的な地位を認める結果になった。しかしイスラームは、この種の介在者を一切認めていない。(中略)たとえ信徒たちの長であるカリフといえども、一介の信者の信仰に関して口出しする権利をもっていないのである。
 このように信徒をおしなべて平等とし、その信仰に仲介者を設けぬ態度は、こういういい方が許されるならば、徹底的に大乗的であるといいうるだろう。

ここを読んで、ああ、やっぱりそうなんだなぁと思いましたです。

<47ページ 他宗教との違いは何か より>
 アガペー的な愛の精神は、それ自体尊ぶべきものである。しかしこの美しい教えは、たんなる抽象的な教えにとどまらず、なんらかの具体的なかたちに集約されねばならないのではなかろうか。


(中略)


彼(ムハンマド)の伝えた法の内実を検討すれば、この法が普遍的な愛の精神を、固有なかたちで具体化している点が明らかにされるであろう。

コミックの「聖☆おにいさん」のバレンタインのエピソードの会に「アガペーチョコ(義理チョコのこと)」という表現が出てきたときに、妙にしっくりきたのは、まさにこういうことなんだよなぁ。

<48ページ 他宗教との違いは何か より>
仏教になぞらえて比喩的に表現するならば、イスラームとは、きわめて大乗的な、しかも組織的な在家宗教であるということができよう。仏教の場合、大乗的在家主義を標榜する宗派としては、例えば浄土宗があげられるであろう。浄土宗の中でも、とくに王法と仏法との関わり。つまり政教一致の問題と真剣に取組んだのは、蓮如の指導したいわゆる一向宗であるが、彼らの勢力は歴史的に定着せず。それほど組織的な固有の法体系いをもっているわけではない。これにたいしてイスラームは、はるかに組織的であった。啓示宗教と仏教は、本質的にその組成を異にしており。したがってこれを安易に対比することは危険である。筆者の比喩的説明も、ユダヤ教からイスラームにいたる発展過程を、日本の読者に容易に理解してもらうためのものにすぎぬ点は、充分に留意していただきたい。

こういう比喩的説明はありがたい。いまとなってはこの分野に限らずですが、喩えが鮮やかであるほど苦情がくる風情のなかで、「(ある面に対し)もし少しこういうことに気がついているならば、そうだよ」と背中をポンと叩いてくれるような比喩は、ありがたい。



この本には、ムハンマド人間性についても窓を開けてくれるような内容があります。

<56ページ ムハンマドの生涯 より>
非凡な戦略家としてのムハンマドの才幹が充分に発揮されたのは、このマディーナにおいてであった。そもそも彼は、生地メッカを無為に離れたわけではなかった。当時マディーナではアウス、ハジュラジュの二部族を中心に根深い対立があったが、人々は抜け道のないいがみ合いに飽き、協調の方法を模索していた。そしてたまたま預言者ムハンマドを訪れたマディーナの民が彼の教えを聞き、部族対立を超克するイスラームの理念とムハンマドの人格に深い感銘を受け、結局彼に自分たちの問題の調停者となるように依頼しているのである。

預言者は「人々が協調の方法を模索」をはじめたところで、預言者となるのかもしれないな。預言者がはじめから預言者なのではなく、状況が預言者預言者にするような。


コーランクルアーン)はムハンマドの生涯のなかで、20年かけて啓示されたものだそうで、その20年の間に、ムハンマド自身も成長していきます。
イスラームの教えのなかには「袖振り合うも他生の縁」とまったく同じようなもの(参考)があり、博愛の感覚が身体的にも物理的に、近い。


イスラームは情報の距離として遠くに感じるけれど、心の距離はすごく近いところにある、そんな気がします。

イスラームの心 (中公新書 (572))
黒田 寿郎
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