うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ 藤原智美 著


読んでみると前半から中盤までに「言語」の歴史について興味深いことがたくさん書かれていました。なんでこんなタイトル付けたんだろ…もったいない、と思うほど。最後のほうになると妙に悲観的すぎるようにも見えたりして、ゆらめきのある本でした。
この本は前半がすごくおもしろくて、言語と思考についての話は読んでいてうなずくことばかりでした。

 ともかく人の認知力というのは案外あやふやで、ことばによっても変更されたり、創造されたりするものだということです。認知も思考も、ことばとひと続きにつながっている。だから生まれ育った場所で手に入れたことば=母語によって、それぞれの認識は微妙な差異をふくんでいるともいえます。ことばが変化すれば、認知の仕方や思考方法も変わってくる。ことばの大変化が起こっている現代社会では、ここが重要なところです。
(序章 ことばが人と社会をつくる 精霊もカッパもUFOもことばから より)

これは外国語を習得するときに、しみじみそう感じます。


 まだ活版印刷がなく、音声言語が全盛だった時代、話しことばによってつくられる表現、たとえば叙事詩のようなものですが、そんな「語り」には、だれもが知っていることわざ、型にはまった表現が随所にちりばめられていたといいます。記憶しやすいように慣用表現を多用したわけです。
(第二章 五○○年に一度の大転換 話しことばは話し手に有利、文は読み手に有利 より)



 それまでヨーロッパを支配していたカソリック体制が、教会を拠点としていたのにたいして、宗教改革を推し進めるプロテスタントは、聖書という書物に教義のすべてを求めました。カソリックプロテスタントの闘いとは、「教会=建築空間」と「聖書=本」との闘いだったわけです。プロテスタントは教会という空間から宗教に解放し、聖書に宗教活動の基本を移し、それを成功させました。本の書きことばは寡黙な読者を生みます。そのとき個の意識による思考をうながします。聖書は宗教を神との関係に移しかえることに成功したのです。
(第二章 五○○年に一度の大転換 印刷革命が家族のあり方も変えた より)

インドのギーターも西洋の聖書も、神の概念が言葉を発達させたとも見える。日本の昔話も、そうといえばそうか。そう思うと異様な正確性で全国的にその音が認知されている、なまはげの「わりぃ子はいねがー、泣ぐ子はいねがー」も詩のように感じられてくる。


 そもそも英語と日本語では語順、パラメータが異なります。主語のすぐあとに述語がくる英文の語順は日本語にはないものです。このパラメータの差異を生めて翻訳することは現在の技術レベルではきわめて困難です。
 さらに最近では人魚構文という東アジアに特有の世界的に見れば奇妙なことばの特色が、言語学者の角田太作らによって発見されています。角田によれば、たとえば「ぼくは銀座へ行く予定です」というような表現を人魚構文というそうです。この構文では「ぼく」という人間が「予定」という名詞で最後にくくられる。「ぼくは」=「予定です」というように文の上と下がちぐはぐになる。つまり人魚だというわけです。こんな表現は英語にはない。ないものを翻訳するのは不可能ともいえます。
(第三章 消えていく日本語 構文の差異が翻訳をむずかしすくる より)

東アジアってことは、日本以外にもこういう感じはあるということなんですね。「愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか」という本のなかで中島岳志さんがヒンディー語の与格構文を紹介していましたが、「そういうことになっている」という状況を共有する表現にはこういう不思議な構文が多そう。


この本はどんどんデメリットをあげる雰囲気になっていくのですが、わたしはSNSの登場によって、それっぽいふるまいや物言いだけで論理が破綻している人が可視化され、とても助かると感じています。知らなければ普通に雑談してしまいそうな人に自分の情報を出さなようにしたり、未然にトラブルを防ぐことができる。
著者が耐えられないのは「無知さ」であって、つながることではないような…。そんなことを思いながら読みました。