うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

他人の頭を借りて気持ちよくなるときの、盗みの感情

昨年の夏ごろから、本を読んだあとの心の整理のしかたを変えています。
なるべくどっぷり自分の中に潜ってから感想を書くようにしています。読んだだけで「感謝」や「反省」でクロージングする文章を書いて出すって、とてつもなくずるい…と猛烈に恥ずかしくなることは以前からたくさんあるのですが、その恥かしさを保持したまま模索を続けていたら、わたしのなかにある視点がひとつの人格のように影を持ちはじめました。

 

 

 お前のポジティブ・キャンペーンになんか、
 そうそうつきあってられるかよ。
 お前そのものに魅力があるわけでもないのに。
 せこいやつめ。

 

 

そう、せこいのです。そして、わたしの文章を頭からつま先まで舐めるようにチェックするコワモテでリーゼントの別人格を自分の中に設定して批判的な目で見るというプロセスを一度入れると、以前よりも自分で読んでも少しおもしろくなることに気がつきました。


先日読んだ小説「静かに、ねぇ、静かに」の感想は、まさにわたしがやってきたような行為の雑さと心のせこさに対する罪悪感そのもの。その後、それを読んでくれた友人が「自分も過去に "感謝" でクロージングした経験があって、客観的に見るととても気持ち悪いことに気づいていたのに、そのままにしていたことをがあった」というメッセージをくれました。
わたしにとって「吐露させてくれる」貴重な原動力になってくれるのは、まさにこのように他者から思いを返してもらえること。反省仲間の存在がはげみになる。ポジティブな共感をしたければ自己啓発書を読めばよく、高揚感だけをトリミングして共有できる仲間とウェイウェイしていればよい。まさにあの小説の中の仲間たちのように。わたしが欲っしているのは、共感仲間ではなく反省仲間。


"ヨガをしている人" という設定で書くブログは「感謝」「反省」「心がけ」「気づき」「修行」「勉強になった」なんて言葉を文末に持ってくるだけで簡単にそれらしくなります。でもそれ、おもしろい? と、わたしのなかのコワモテでリーゼントの人が尖った靴の先でわたしをつつく。本屋で立ち読みしたヨガ雑誌や健康関連本の棚で目にした言葉のイメージの借用、他人の頭を借りていることに対して「そこに盗みの感情はある?」と問うてくる。リーゼントが。近ごろこのリーゼントの懐に入ることができてきたかな、と少し思えるようになってきました。ここまでがけっこうつらかった。こわかった。
自分と仲良くなるというのは、こういうプロセスかもしれません。


今日書いたことは、9月にラジオから流れてきたクレイジーケンバンドの「せぷてんばぁ」という歌を聴いていたら、途中から展開がおよよとなって、わたしが言いたいのはまさにこの感じだ、思いを外に出してみようかな…と思って書いたのですが、よく見たらクレイジーケンバンド人はリーゼントではありませんでした。想念の紐付けというのは、いいかげんなものです。

せぷてんばぁ

せぷてんばぁ