うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

シャンティなコンフォート・ゾーンから一歩踏み出してきてくれて、ありがとう


1月に東京でバガヴァッド・ギーターの読書会をやったときのこと。
その日はヨガインストラクターの200時間トレーニングを受けたことがある、あるいはすでに指導をしているという人が何人かいらっしゃっていたので、わたしの経験について少し多めに話しました。
わたしはかつてインドで500時間のトレーニングを受けたことがあるのですが、そのときのノートを頼りにサンスクリットの書物をあのゴニョゴニョ文字(デーヴァナガーリー) の状態から紐解くべく、読むことの習慣化も含めてさまざまなことを5年ほど同時進行してきました。
当時のシャラ(学びの場)では、白い服のサーンキヤ・ヨーガの先生と、オレンジ色の服のヴェーダーンタ・ヨーガの先生が別のスタイルで進行をする時間があり、いずれにしてもディスカッションが多いのですが、当時の先生のやり方のなかで「これは日本人同士でやるのは無理だろうな」というコミュニケーションの要素をチューニングし続けてきました。
日本で行われる講座では、ヨガに限らずセミナーであっても塾であっても、コンフォート・ゾーンまでパッケージに含まれた文脈で場の説明をされていることがほとんどです。ここで学べば安心です。本格的な講師陣だから安心です、アットホームな雰囲気だから安心です、少人数で個別にケアできるので安心です、etc…。そうしないと踏み出さない人が多いので、そのように書くのでしょう。


── ということがありつつ。
個人が自我に向き合う瞬間は、自分自身に向き合う勇気が必要。どんなに周囲で安心材料をうたってくれても、それは「嫌な思いをしない」 「コスト面で損をしない」 などの可能性を上げるところまで。嫌な思いをしたくない気持ちやコスト面で損をしたくないマインドって、どこから来るの? というのをパッケージから切り離すことそのものが商業的であるというパラドックス。ここは、えいやっと考えないことにするのが日本人の所作。
そんな思いがありつつ、わたしは自我に向き合う瞬間のこわさや踏み出す勇気の障壁となる、「慣習による不必要な真面目さ」についても参加者のみなさんと一緒に考えたくて、読書会形式でやっています。わたしと話す予定かのようでありながら、自分自身へのインタビューになっている。インタビューって、インター+ビューじゃからね。うふふ。


年齢を重ねていったら将来的にこれはきついだろうなと思う、コンフォート・ゾーンから抜けられなくなるあの感じや、目的の違う場に自分の理想(妄想)を無理やりねじ込もうとするあの頑固さ。自身の中に潜む「怠惰なあいつ」に、どう立ち向かっていけばいいのか。
そういうことを考えるときに頼りになる、それを美しい詩に落とし込んでくれているのが、バガヴァッド・ギーターです。わたしにとってギーターは、そんな頼りになる存在。
なので、「◯◯時間のトレーニングを受けたことがあるのですが…」といって来てくれる人に会うと、「シャンティなコンフォート・ゾーンから一歩踏み出してきてくれて、ありがとう! 君は仲間だ! 同時代に生きる仲間だ!」という気持ちになります。なので 「トレーニングを受けたことがあるのに、さっぱりわかっていなくて…」なんて、モジモジしないでほしいと思っておるのですよ。


わたしはしっくりきていないことをそのままにしておくことを、いまはすごく大切にしています。それが、自分の本性を知る鍵になることがあるからです。そのうえで「しっくりきていなくても、流れを止めないようにする」ということを日々のコミュニケーション・マナーとして心がけています。しっくりきていないのにニコニコしていることを不純だとは思わないし、そんな自分のことを偽善者とも思いません。
それよりも、日常の中でしっくり来ていなかったことをいきなり違う場所へ爆弾のように投げ込むような、テロリストのような行動をしないよう、気をつけています。墓場まで持っていく前提でしっくりいかない思いをたくさんストックして、それを自分を知る材料にしてリサイクルする、そんなふうに思いや感情を「回して」います。


20代・30代の頃はエネルギーがたくさんあったので、「しっくり来ていなかったことをいきなり爆弾のように投げ込む」という、第三者から見たら欲求不満のおばさん予備軍にしか見えないようなことを、たまにやらかしていました。そのとき「まぢか。やばいぢゃないか自分」と思っていました。
でもそのときにそう思ったことを、そのまま打ち消さずにやってきてよかったな、と今は思います。読書会をきっかけにそういう話ができる人が少しずつ増えて、うれしいな。と思っています。