インド旅行から戻って以後、ガンジーとタゴールのテキストを読んでいます。
もともと西インドへ行きたいと思った理由はガンジーでした。昨年は「真の独立への道」という本にすっかり打ちのめされて二度読み、これを書いた当時のガンジーと今のわたしは同世代であることに驚きました。
40代というのは自分の思想の根幹のようなものが定まってくる年代なのだろうか…、と思うことがここ数年で何度かあって、ガンジーのテキストにその解を見たような気がして、思考は醸成するということを少し信じられるようになりました。
ガンジーのテキストは、偉大な人物として海外からも扱われるようになる以前のテキストに、より力を感じます。世界史の教科書で知った偉人だけれども、1942年に日本に手紙を書いていました。
▼短いので、すぐ読めます。
- 日本の全ての方々へ 原題「To Every Japanese」(翻訳 The Creative CAT)
同じようなことを、タゴールもガンジーも日本へ向けて警告してくれていたというのに。
当時の日本の高揚感は、どんなものだったのだろう。
わたしはインド式の「絶対積極」の考えかたが好きです。それは、ガンジーのテキストの中にもありました。
情けは武士を飾る。しかし、情けとは懲罰の權力ある強者のみが有つ特權である。無力な弱者が情けをかけるといふことは意味をなさない。猫に喰ひ殺されようとしてゐる鼠が、猫に情をかけることは出來ない。
(劒の教義 より)
私は印度が弱いから非暴力を實行せよと云ふのではない。私は、印度がその力を自覺して、非暴力を實行することを望む。印度が自己の力を自覺するには、何等の軍隊的訓練を要しない。吾々がややもすれば自己は一塊の肉に過ぎないと考へるから、そんなものを必要だと思ふのである。私は印度があらゆる物質的弱點を超越して凱歌を擧げ、全世界の物質的結合を蔑視し得る不滅の靈魂を有つことを自覺せむことを望む。
(劒の教義 より)
自分は弱者であると考へて居る人々には、この力を用ひることは出來ない。人間のうちには獸性より優れた或るものがあつて、後者は常に前者に服從するのだといふことを知る人だけが、有力な受動的抵抗者となることが出來る。
(受動的抵抗の理論と實行 より)
以下はいずれも「非暴力」からの引用です。まるでヨーガ・スートラ1章33節のよう。
人が非暴力であると主張する時、彼は自分を傷けた人に對して腹を立てない筈だ。彼はその人が危害を受けることを望まない。彼はその人の幸福を願ふ。彼はその人を罵詈しない。彼はその人の肉體を傷けない。彼は惡を行ふ者の加ふるすべての害惡を耐忍ぶであらう。かくして非暴力は完全に無害である。完全な非暴力は、すべての生物に對して全然惡意を有たぬことだ。
吾々の非暴力の宣誓は、將來の復讐の可能を排斥する。吾々の或る者は、不幸にも、單に復讐の日を延期してゐるかのやうに見える。
若し吾々が吾々の綱領を信ずるならば、吾々は英國人が確かに武力に從順であるやうに、愛情の力にも從順であることを信じなければならぬ。
最後にあるような考え方は「真の独立への道」にもありました。40歳で、すごく大人…。
「印度の婦人へ」も、ぐいぐいきます。
吾々は神の授くる子供を有難く思つて滿足してゐるやうに、印度の生産する衣類に滿足するやうにならなければならぬ。いかに他人の目には醜く見える子供でも、自分の嬰兒を投げ棄てる母親はいないであらう。愛國心を有する印度の婦人は、印度の製産品に就てもこれと同じ心掛けを有たねばならぬ。そして、手で紡ぎ、手で織つたもののみが印度の製品と考へられてよいのである。
(印度の婦人へ より)
ほんと、いわれてみれば、そうなのです。なのに、なんでなんだろ。自分の国に愛情がないのかな。
このほか、「ヤング・インデイア」「インデイアン・オピニオン」掲載テキスト訳(以下全て 福永渙訳)がオンラインで読めます。