東京でバガヴァッド・ギーター読書会を再スタートした時のこと。いつものノートを一冊持参していたので、流れで「写ギーター」の話をしたら印象深かったそうなので、ここでもテキスト化します。
写ギーターというのは写経のようにギーターを書き写すことで、わたしが勝手に名づけた趣味です。インド思想の古い本は大きくて本文と註釈が離れていることが多いので、自分用に写すとあとあと便利なのです。
暇なのかと言われそうですが、わたしのようにおてんばな中年はこんな趣味でもないと、年がら年中筋肉痛ということになります。そしてこれは、どこでもできるのがよい。待ち合わせ中やお出かけ前に、ちょこっとやれます。
手で写すと、こんなことがわかって楽しいです。
- 「それはアートマン」に帰結する文章の前後や流れに、その人の訳(=こころ)の個性が出る
- 言いようのない心のはたらきについて「この手があったか!」という表現に出会えたりする(辻先生の「不毒舌」とか)
- 韻のおしゃれさに気づいたりする(デーヴァナーガリーで写す場合)
ヨーガ・スートラやほかの六派哲学の教典を写すときは、こういう発見が楽しいです。
- たまに唐突にロマンチックだったりシビれる訳に出会う
- それぞれの学者さんが、脳内でほかのどの学派と対比させているかが感じられる
- 書き下ろし感(ひとりの人がほとんどまとめたであろう)やバラバラ感がわかる
全般「よくこの言い回しを見つけたな」とか「おっとこう来たか」というのが楽しいです。読むだけの速さだと気づけない。書きながらだと気づく。逆に「日本語だと、こんな感じしかないかぁ」というのもある。ガッカリするときもそれはそれで、日本語のコミュニケーションではこの種の感情は共有しにくいかも…ということに気づいたりします。中村元先生のすごいところは、こういう日本語の限界をわりと日常的な言葉で超えてくるところ。
サンスクリット語は日本語よりも感情を表す単語そのものが多いと感じます。なので、わかりはじめるとおもしろいです。日本語が12色絵の具ならサンスクリット語は48色絵の具かな、というくらい機微がある。各訳者さんがどんなふうにそこに心を寄せて分類していったのかという苦心が、読んでいるとすごく沁みます。絵で言うと、どの色を混ぜてその色を作ったかという感じと似ています。中村先生は、水彩画にたとえると「水」の使いかたのうまさが特異。田中嫺玉さんのバガヴァッド・ギーターは、これまで水彩が主流だったところに油絵で描いてきた! というような感じで、これはこれですごいのです。
わたしは仕事でパソコンの前に居る時間が長いので、こういう紙とペンを使う趣味は意識的に画面から離れるために続けています。真似してみるならたとえばギーターの2章だけとか、そういう感じがトライしやすいかも。第一章は「(マハーバーラタ内での)これまでのあらすじ」を含んでいるし、全部やろうとすると700節近くあるので、たぶん挫折する(笑)。写ギーターは、やっていくうちに自分に合ったノートとペンの仕様が定まってきたりして、文具屋へ行くのが楽しくなりますよ。
ヨーガ・スートラは編纂されすぎで、ギーターに比べると書き写しの楽しみが少ないです(日本語になると異様に説教くさくなるし…)。やっぱりやってて楽しいのはバガヴァッド・ギーターがダントツ。ビジネスマンなら3章、流されやすかったり気持ちのバラつきが気になる人には、14章や17章もおすすめです。
▼ギーターの本については、こちらで紹介しています