うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

こころの星座盤のようにひらくバガヴァッド・ギーター


この春はバタバタといろいろな人の価値観や正義感を見聞きすることがあって、わたしは直接聞いたもの以外はスルーすることが多いのですが、それでも自分の視点にはない主張を聞くと、自分の中の北極星を確認したくなる。そんなときがあります。
わたしはそんなとき、バガヴァッド・ギーターを開きます。3つの性質と行動を重ねて指針のように書かれた節を、よく星座盤のように開きます。純質的なものの見かたは、このような場合はどういう考えかたになるだろうか、ということを確認するために。
「他人に迷惑をかけず、空気を読んで行動する」という日常は判断力が弱ってきたときにはしんどいこともあり、別の要件と重なってしまったときには心のなかで接触事故を起こしかねない。そんなとき、自分と違う価値観を理解するためにバガヴァッド・ギーターを開くと、なんかあるんですよね…。


たとえば、第16章の7節〜10節(上村勝彦 訳

阿修羅的な人は、〔正しい〕活動とその停止を知らない。彼らには、清浄さも、正しい行動様式も、真実も存在しない。(7節)

彼らは言う。──「世界は不真実であり、根底がなく、主宰神もない。相互関係によって生じないものが別にあるはずはない。だからそれは欲望(カーマ)を原因とする。(8節)

彼らはこの見解に依存し、自己を失い、小知であり、非常に残酷な行為をし、有害であり、世界を滅ぼすために出生する。(9節)

彼らは満たし難い欲望にふけり、偽善と慢心と酔いに満ち、迷妄のために誤った見解に固執し、不浄の信条を抱いて行動する。(10節)

この部分はまだまだ続くのですが、こういう状況ってけっこうあるように思うのです。
個人単位でなく組織や仕組み単位でそうなっていくという場面でいうと、ふるさと納税のありかたが激化して行く状況や、ウェブのキュレーションメディアの問題が思い浮かびます。9節にある「見解に依存」という状況から人間が麻痺していくことが多いなかで、自分のものの見かたをどのように据え置くか。
身近な人を突き放すことなく、どのように自分を保つか。「みんながそうしているから、そうする」という流れで "ぽよーん" と阿修羅的な未知へ進むための歩く歩道みたいなのが、しれーっとふつうにそこに用意されるってことは、かなりある。しかも、それが親切やポジティブなミッションとして設定されることもある。

ギーターではこのまえに、「阿修羅的」の対義語として「神的」という定義で、その性質が語られています。
困った判断の連続のなかでの「考えすぎない、ひとりでかけひきしすぎない工夫」の手助けに、わたしはバガヴァッド・ギーターが手放せません。