うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

引き受けるときに、意志のあるやさしい目をする人たち

インド旅行中にこんなことを思い、ノートに書き残していた。


こちらからなにかお願い事をして、それを引き受けるときに意志のあるやさしい目をする人たちが何人か印象に残っている。
アーメダバードでモティ・マハルのレストランのランチがとてもおいしいのだと教えてくれたオートリキシャーの運転手、ホテルで水の出具合を確認しに来てくれた少年、ブージのホテルのフロントの人たち、アーメダバードで電車の切符を買うときにさっと近づいてきて助けてくれた女性職員。

──旅のメモはここまで。



西インドではこれまでのインド旅行とは違う、自分が子どもの頃に大人に頼まれてなにかをしたときに感謝されて嬉しくなったときのことを思い出すような、そんなプリミティブな「やってあげたさ」を受けとる機会が数多くあった。旅の中ごろからはインドにいるのに全く警戒心の抜けた、そんな旅のしかたをしていた。


わたしはこのプリミティブな「やってあげたさ」を大切にするために、ここ数年でライフスタイルを変えてきた。会社組織・家族組織・ヨガ教室組織のなかで適応能力ばかり磨きあがっていく自分にはもうプリミティブな「やってあげたさ」が消えてしまっていることに気がついて、自分が自分に対して「ずいぶん薄っぺらい慈悲を毎日発動しているもんだな。馬鹿め」となじることが増えてきたから。
プリミティブな「やってあげたさ」の火種が小さくなることと、よくほかの人が使う「やらされている感」ということの意味するものは似ているとは思うものの、わたしは「やらされている感」という言葉を選ぶことがない。日本では、自分で選んだ仕事をしている人が多い。「やらされている感」の存在を表に出すことがあるとするならば、それは「ちゃっかりぶら下がると決めている感」ともイコールになる部分があるはずだから、わたしはその言葉を選ぶことに対しては共感よりも反発のほうが少なくとも1%は多くなる。
インドはそうではないこともある。はじめに挙げたオートリキシャーの運転手は、たぶん自分で選んでその仕事をしている。かつてはそうではなかったであろうことがわかる英語力だった。ホテルで働いている少年は、たぶん逆。学校に行かないまま大人になっていくのだろう。それでもあの瞬間の目にあるプリミティブな「やってあげたさ」は二人とも同じで、自分もあんな目つきで生きる瞬間を多くもてる人生にしたいと思う。
あれがほしい! あれがうらやましい!!!


夏目漱石三四郎という小説に出てくる与次郎という青年のこのセリフは、いつも的を得ていると思う。

 人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだ

この言葉は自分自身が辛辣なときはネガティブに響く。でもインドで思い出したときにはポジティブに脳内再生されていた。
この言葉を思い出すときの自分の意識の純度に敏感でありたいと思う、そんな旅だった。


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