うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

バガヴァッド・ギーター 鎧淳 訳


はじめに端的に感想を書くと、人気の田中嫺玉さんが俵万智だとしたら、鎧先生は松尾芭蕉です。「兵・精兵(つわもの)」という表現がいっぱい出てくるので、毎度「出た! 芭蕉」と思いながら読んでいたら楽しくなってしまいました。「対立の惑い」なんて表現もシビれます。
偏りなく訳そうとする姿勢を貫かれており、冒頭に「固有名・事項等について」という用語集が置かれています。プルシャは無理に訳さず「プルシァ」のまま。J・ゴンダ先生のインド思想史を訳した方なので、時代考証をどこに設定するかで定義が変わるものはそのまま、というスタンスなのではないかと思います。おもしろいのは、ヨーガもカナのままであったり、ときどき当て字に「不可思議力」という字列を用いているところ。ヨーガ・スートラの第二章のようなヨーガはカナのままで、第四章的なニュアンスのところに「不可思議力」が使われていて、そういう細かな書き分けも読みどころ。


わたしはギーターの訳を読み比べるとき、4章22節の冒頭をどう訳すかを見るのが好きです。めちゃくちゃ要約すると「足るを知れ」みたいな表現なのですが、比較するとおもしろいので並べてみますよ

  • 期せずして得たるを悦び(鎧先生)
  • 偶然に得たるものに満足し(辻先生)
  • はからずも手に入れたものに満足し(宇野先生
  • 無理なく入ってくるもので満足し(嫺玉先生

ヴェーダーンタ協会版は下敷きの要素に嫺玉先生色が強いのでそこはセットで見ていいと思うのですが、冒頭の学者三者のなかで際立つ上村先生のおそるべき訳(笑)! わたしの主催するギーター読書会でも参加者のみなさんと「"たまたま" って!」と盛り上がりました。ギーターは、関係性をにおわすことで力関係を示そうとする日本語とはまったく違う言語の感覚で書かれているので、こういう部分をどう訳すかを楽しむことが、そのままセルフ・リアライゼーションになります。わたしはこういう読み方も重要と考えています。


鎧先生の訳は、その後のほかの書物がここを引用しているのだな、と思う部分を想起しやすいのも良かったです。
インドの書物には、ひたすら「羅列する」というのが定番の記法ですが、なかでもこのギーターの訳の4章25章周辺は、「シヴァ・サンヒター」の冒頭を想起させるものでした。まあこのへんは音楽と一緒で、引用にはまたその引用があったりするのですけどね。



わたしが「クリシュナだけど親鸞さま」と呼んでいる4章36節も、鎧先生の日本語はレトロ感がたまらない!

たとえ、すべての悪人中、そなたが極悪非道のものなりと、ただに知識の舟により、すべての罪障乗り越えん。

時代劇のナレーションっぽく読むと、ジワジワくる。やばい。




わたしが「クリシュナだけど空海たん」と呼んでいる5章24節も、鎧先生の日本語は空海テイストが出てる!

内に幸あり、内に悦びあり、また、まさに内に輝きあるヨーガ修行者は梵に合致し、梵涅槃にいたる。

たまんないなぁ、この高野山臭。



マニアックすぎますか?
いいんです。わたしが楽しければ。



鎧先生の訳は語戯のニュアンスをなるべく壊さないように心がけているので、このバージョンを読むことで上村先生は現象力を主体性バイアス強めで訳しているんだな、なんてこともわかったりします。細かく学んでいる人には、6章2節の注釈、輪廻の解説部、詩脚対応表記のありがたさも沁みることと思います。



★おまけ:バガヴァッド・ギーターは過去に読んださまざまな訳本・アプリをまとめた「本棚リンク集」があります。いまのあなたにグッときそうな一冊を見つけてください。