うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

認識・推論してからのスルー

前にここで紹介した「スルーする技術」を「これはわたしに必要な本だ!」と思って読んだ人と話す機会が、ここ1か月の間に2回ありました。
ひとりは本を手に持って開きながら「ね、ね、うちこちゃんここ、わたしうなずいたわ〜」という感じで話しました。「ああ、そういう雰囲気の会社にいたのだねチミは」と思いながら聞きました。
もうひとりの人は、ここ数年一緒にヨガの練習をしている人なのですが、ここに具体的にうなずいたそうです。

鈍感になれない私たちの合言葉は「気づいてからのスルー」


彼女の言葉を借りると、


 スルーすることとしないことの線がちゃんとひけていない
 意識してスルーできてないから、残像(余韻)に悩まされたりしてしまう


これなんですよね。
彼女とわたしがよく「角田光代小説」の感想で盛り上がり、気がつくと「ふたり読書会」になってしまうのは、この種の共感があるから。
わたしもみなさん同様、日々いろいろなことがあります。やっと最近、認識のあとに推論を繰り返してもそんなに疲れないようになってきました。
これは少しずつ筋トレみたいにやっていかないと、あぶない。急にやると「坂の途中の家」みたいなことになります。この小説は、推論のプロセスをすごく細かく書いている 。
相手にとってはよくわからないことを口走ったり、衝動的に行動をすることって、ありますよね。場合によっては、それが原因で信頼を得られなくなったりするのだけど、それも含めての縁とか運とか、そういうものがあるのだと思います。
他人の衝動的な行動に遭遇した時は、それに「ひっぱられない技術」があれば健やかでいられるし、「分析して、ときに料理して出す技術」があったら、楽しいだろうな、なんて思います。わたしが「コント」をよく見るのは、「分析して、ときに料理して出す技術」に感動するから。わたしもこのくらい、現象をちゃんと見ることができるようになりたい、という意欲が触発される。


 残像(余韻)に悩まされてしまう


これ、ほんとよくありますね、
余韻はどこに残っているのか。それは自分の意識の中。余韻の直前の記憶を誰が刻んでいるか。それはわたし。ヨーガの教典にもよく出てくるsmrti。
それを記憶に刻むときに「相手はわたしにこういう印象付けをしたかったのではないか」と、推論しちゃうんですよね。


これは、「すてきな関係」をだれかと共有したと認識した経験があるからこそ、発生すること。
「すてきな関係と認識して刻んだ記憶」がなければ、「すてき or not」の分類ができないから、刻みかたはもっとプレーンでいられるはずなのに。「美味しいものの味を知ってしまったわたし」ってことなんですよね。世の中、知らなきゃよかったことばかり。よくそんなことを思います。
なのでわたしは、「意識がヨゴれたなりに、楽しむ」ということを心がけています。でんぐりがえしを、したりしながら。